March 27, 2007

曼陀羅 カルカッタ

カルカッタ子供<



曼陀羅 カルカッタ             

生と死がいつも隣り合わせで、死が終わりでなく、来世の始まりとなる輪廻転生の曼陀羅都市ベナレシを早朝発ち、インド最大の都市カルカッタにむかった。カルカッタまでは680キロほどの道のりである。

三万キロ近くを走って未だに快調なエンジン音を出して愛車VWがインドの埃のたつ街道を走っている。街道には車だけでなく、人間がゆっくりと横断し、聖なる牛がそれ以上にゆっくりと横切ってゆく。側道では、犬が車をみて吠えているが、全く気をかけずに静かに長い白い髭をはやした老人たちが屋台の縁台で、チャイを飲んでいる姿が車窓を跳んでゆく。。
 
外の気温は30度近くねっとりと湿気が強い。これが冬だ。夏はどういうことになるのだろうか。今は一月末である。カーラジオから楽器シターのメロディーが流れている。時々小さな集落を通る。白装束のタバーンを巻いた男たちが腰をかがめて何かしている。よく見るとみな小用を足している。インドでは立ち小便の習慣はない。皆座って用を足す。ロータリーのような広場では中央に蛇口のついたバルブから水が出ている。そこで洗濯し、洗顔している群集がいる。ほとんど舗装した道はないから、埃で前が見えないが、そんなにスピードが出せないので危険なことはない。
 
それでもカルカッタに近づき始めると舗装された国道になって次第にスピードをあげてインド最大の都市に向っていった。
 褐色の濁流ガンジスに鉄橋が架かっている.それがハウラー橋である。これほどの鉄橋が突然現れると実際これまで走ってきた農村インドのイメージが壊れるほどだ。大英帝国がインドに架けた橋だが、なにを結ぼうとした橋なのか。搾取した黄金を運ぶ橋が現在はインドの貴重な橋として残っていた。夕日がガンジスの水面に映えていた。
 
早朝のベナレシをでて日が暮れかけていた。街が近くなると道にでこぼこができているのか車が揺れだした。次第に郊外から市中にはいってきているらしいが、暗いままで街の灯で明るくならない。街灯など全くない。通過する家の中からはローソクのひかりがもれている。インド最大の都市に電気がきてない筈はないから、考えた。そうか停電だ。電力事情が悪く停電でその需要に対応しているのだと解釈した。
 
それでも街の中心らしき辺りにくると明るくなったが、道路標識が読めなかった。読めたところで何処が何処だかわからないのだから同じだと諦めて、横に止まったタクシーの浅黒い運転手にこの辺で泊まれるホテルの場所を尋ねた。
「ヒヤリス・チャーリンギストリート。ゴートゥ・サドルストリート。」
サドル通りへ行けといっってるぞ。
「プリーズ ガイドアス」と言うと 
「フォロウミー」と言い残すとさっさと前を走り出した。
何度か道を右や左に折れると真っ暗なところでタクシーが止まった。そこがカルカッタ有数の安宿街のサドル通りだった。あまりにも真っ暗で危険そうな宿屋街にこの我々も怖気づいた。
「YMCA プリーズ」とヒリキが言った。
「オーケー、フォローミー」タクシーがまた走り出した。そして大通りに面した建物の前に止まった。
「ヒヤー、テンルピー ユーハフツゥペイ」運転手が言った。何か到着早々ぼられたが我慢してそれでも案内料と割り切って、ねぎって払った。
 建物はロンドンでよく見た古い建築物に良く似ていた。中に入ると髭を生やした親父風の管理人が受付にいた。本日空きがあるかどうか聞くと
「ユウハブ・ラック。バットオンリー・ドーミトリーベッド。」
個屋でなく大部屋でベッドがおいてあるところだけが空いているという。疲れていて個室でゆっくりして寝たかったがないのでは仕方がない。一泊十ルピー(350円)そこそこだ。大部屋に通されるとベッドに腰を落として寝そべった。天井に大きな十字のファンが廻っていた。

隣のベッドにはフランス語の新聞を読んでいるヒッピー風の西洋人がいた。
「ボンスワール」というとにっこり笑顔をつくった。西洋人の見知らぬ人に対する態度には見習う点が多い。自分が決して敵ではないという笑顔を必ずつくる。何処でもだ。
「今ついたのかい。どこから?」と尋ねた。
「車でベナレシから。十二時間かかったよ。」というと
「ボン・デュー」と答えた。懐かしいフランス語の驚きの表現だった。
「君はここは長いのかい」と尋ねると
「もう二ヶ月になる」という。
「カルカッタはそんなに面白いのかい?」と聞くと
「ノー・ウェイ」と初めて英語で答えた。他に方法があるかいというような調子に聞こえた。
 疲れていたが、まだ寝るには早いし腹が空いていた。外にレストランかないか聞くと、「レストラン?」と驚いたような声を出したが、ニタニタして
「シー・フアット」とわからないような答をした。あることはあるのだろう。シャワーを浴びる前に外に出た。夕方8時になるとさすがに涼しくなっていたが、湿気は強い。

「インド料理がないかな」捜すとそれらしき料理屋があった。店に入ると意外に客がいた。強い香辛料と揚げ物と牛乳の匂いが混じって異様な空気だった。とてもレストランとおいう雰囲気ではない。座るとでぶっと太った店の主人が寄ってきた。
「カリー?」と聞くので
「イエス」と返すと色々な料理を紹介したが、わからないので、
「ノット・ソーマッチ」と言うと
「オーケー」と言うと、メニューをもって引き下がった。
待っている間にビールを注文すると、インドビールらしい瓶を持ってきた。ビールの蓋が既に開いてていた。
「おいあいてるぞ」ヒリキが注意したが、喉がひりひりで、もう胃まで入っていた。これがくせものだった。その後二〜三日とんでもない下痢に悩まされたのだから。
料理が運ばれてきた。チキンのタンドーリ、ダールというカレースープ、チャパティというパンとこめの飯だ。いつも食べていたものだ。これは安心して食べた。右の指三本で食べた。指に蠅がたかってくる。はらってもはらっても蠅は次から次へとよってくる。蠅を追い払うのと口に持ってくる回数は同じ程度である。不衛生だから追い払うのでなく、蠅を間違って口にいれないように追い払っているのだ。ドーミトリーのフランスのヒッピーがニタニタしていたのがよくわかった。勘定をみると驚くほど安かった。
 
宿屋まで歩いた。暗い夜道に目が慣れてくる。来る時は気がつかなかった。暗い道の両側に人が蹲っている。無数の人たちが或る者は横たわり、或る者はこちらを見ている。老婆が物乞いの手をこちらに向けている。暗い路上に人があふれているではないか。目の前を白い装束の男が立った。暗い夜道に赤い目だけが異様に光っていた。
 
カルカッタは百鬼夜行の世界であった。あらゆる人間の姿がそこにある。路上は人間の生活の場所であり壁のない野外の家である。

雨がふれば雨にぬれ、風がふけば風に逢い、寒ければ互いの体で暖をとる。カーストのくびきに縛られ身動きできない最下層の民は路上をついの棲家とする。不思議に肌の色が黒くなればなるほどカーストが低くなると人は言う。本当かどうかわからないが、確かに路上の人たちの肌は黒い。闇の暗さと肌の色が交じると暗闇に人間が溶けだして一体となる。路上に人が一杯という表現は正しくない。路上の闇に人が溶けて漆黒の世界となっているのだ。旅人はこの漆黒の世界に紛れ込むと容易に抜け出すことが出来なくなるという。ヒッピーのフランスの青年もその犠牲者かもしれない。

そういえば半世紀前の我々の少年時代の日本も暗かった。ぼんやりと灯のともる野原で暗くなるまで遊んだ。道路は舗装されていなかったし時たま自動車が通ると砂ぼこりで目が痛かった。家の前の溝には生活排水が垂れ流しで黒いペンキが塗られた木のゴミ箱に生ゴミが腐っていた。冬は寒く、練炭のコタツで一家が暖をとった。夏は暑くアイスキャンディー売り声をあげて町内を自転車で走っていた。皆が少しでも豊かな生活をめざして働いた。戦争ですべてを失った人たちは平等に貧乏であった。
 
眼前のカルカッタには階級が人々を縛っていた。いかに努力しても報われないとしたら人間はなにを目指せばいいのだろう。ここまで不幸せで、ここまでして人間は生きてゆかねばならないのか。
 
ヤギの首を切断しその首をカーリー神に捧げて経と祈りの儀式をおこなうカーリー寺院がある。斧で首を切られたヤギの胴体はしばらくはぴくぴくと動いている。解体された胴体と肉は路上の民がもってゆく。せめてもの神の恵みがある。まだ人間を犠牲にして神に捧げないだけましなのであろうか。
 
その夜、強烈な下痢で何度も何度も便所とベッドを往復してカルカッタの最初の夜が白々とあけていった。
 我々には一日一ルピーで下男ともいうのだろうか長身のインド人がついていた。泊まると自動的に世話をやいてくれる。ひどい下痢状態を見て薬を買ってきてくれた。地元の薬で丸薬のようだったが、飲むと効いた。

少し楽になって翌朝から近くのツーリスト。インフォメーション事務所にカルカッタ以降の道路事情を尋ねにでかけた。
事務所に入ると、インド人特有の彫りの深い美人が対応してくれた。名前をマンジュラといった。見事なブリティッシュ英語を話す上流階級出身のようだった。
「フロム・カルカッタ ノウ・ロード ポッシブル」ダッカまでは可能だがビルマも中国も国境を閉ざしていた。カルカッタで袋小路に入ってしまったのだ。
「ゼン・ハウキャン・ウイデゥ?」
「ユウハフ・テゥフライ」日本へはビルマを越えて、飛行機で飛ぶしかない。では愛車VWをどうするか?捨ててゆくわけにもいかない。相談するとマンジュラが言った。
「ユウ・トラストミー?」三人は美人のマンジュラに頷いた。

その日の午後からマンジュラがカルカッタを案内するといって我々を連れまわした。なんといって事務所から外出の許可をとったのかわからないが、楽しそうに案内をした。カーリー寺院、ウィリアム砦、ビクトリアメモリアル、ビルラ寺院、なんとかいうジャイナ教の寺院、それに動物園まで、もういいよとも言えずまわった。正直言ってカルカッタには英国の影響のある建物が目立って余り興味を引くところはなかった。

こうして物憂げだがなにも特別でなくルーティーンで安楽でベッドに横たわっているといつまでもねむくなるカルカッタの生活がだらだらと過ぎていった。側には下男のジャディムがついていて食べたいものをすぐ買ってきてくれたし、タバコは一パイサ(15銭)で一本づつでも買えた。ジャディムはカルカッタから10キロも先の農村にすんでいたようだが、毎日歩いて通ってきていた。我々のほかにも担当する客がいるようだった五人いたとしたって一日五ルピー(75円)にしかならない。浅黒いが長身で気がよかった。カルカッタに逗留してもう十日が過ぎようとしていた。そのうえ、意識のない内に1989年が明けていた。毎年行く年と来る年を祝えるのは安定の象徴以外のなにものでもない。

朝ジャディムが我々を揺り動かした。                     
「受付にマンジュラという娘が待っている。急用だそうだ」
「わかった。すぐ下に下りると伝えてくれないか。」そういって身支度して降りてゆくと、
「インド政庁が貴方達を至急よんでいるの。わるい話じゃない。早くして」マンジュラが言った。
「そう。車の件でね」マンジュラに任せた愛車VWの話のようだ。インド政庁は車で十数分のところにあった。マンジュラは怖ろしそうな衛兵の立つゲートをなれた雰囲気ですいすいとはいってゆく。朝のチャイを嗜んでいる官僚のオフィスの廊下を右に左にかきわけ挨拶しながら進んでゆく。するとどん詰まりの高級オフィスのドアをコンコンと叩いた。中から
「カムイン」と男の声がした。
「アイケイム・ウィズ・マイ・ジャパニーズ・フレンズ」とマンジュラがいうとドアが開いた。40代の恰幅のよいインド紳士が立っていた。
「サンキュウ・フォ・カミング。アイアム・インスぺクション・オフィサー。」と自己紹介した。カルカッタ市の警視にあたるオフィサーで名前はマハンソンという。
「ヒー・イズ・マイ・アンクル」とマンジュラが紹介した。オフィスのなかに招じ入れられた我々にマハンソン氏がソフトにゆっくりと英国英語で話しかけてくる。

「お願いがあるんですよ皆さん。皆さんの愛車をどうなさるんですか。マンジュラがもうご説明したと思いますが、カルカッタからはもうバングラデッシュまでしか車ではいけません。当カルカッタの街路に乗り捨てられても三日か四日で廃車寸前まで略奪されます。売ろうにも闇では罰せられます。そこでです。皆さんの車を救急車としてインド政府に寄贈ねがいたいのです。ご存知のように現在カシミール紛争が続いています。赤十字の車が足りません。如何でしょうか。」丁寧に話が終わった。
「勿論、そのお礼として皆様にキャセイパシフィックの航空券をつぎの目的地まで差し上げます。日本までお帰りであれば日本までです。」と顔の表情を緩めた。

三人は顔を見合わせてみたが答はもう決まっていた。もうそろそろこのカルカッタを出よう。ここにいると人間がだんだんと横着でも怠惰でもどんなことでも許されてしまうカルカッタ奈落に落ち込んでしまうような気がした。
 
百鬼夜行の世界。カルカッタの路上は足の踏み場もない。路上にはありとあらゆるものが売られている。通りは物乞いであふれている。片腕の男、片足の男、盲目の老女、いたいげな体をうる少女、蹲る黒い無数の人影。ある人は「カルカッタは人間のジャングル」と言った。路上の民は輪廻転生を信じる。彼らに迫りくる死は終わりを意味しない。死は転生するのだ。現世が苦しければ苦しいほど新しい生が待っている。日常の死は悲しいことではない。『よどみに浮かぶうたかたはかつきえかつむすびて久しくとどまることなし』。
 
徒然なる空蝉の現世はやがてあの曼陀羅の来世を約束する。

 カルカッタ・デゥムデゥム国際空港に三人がいた。ヒリキは日本に、ゴジーはバンコクからカンボヂアに、私はもう少しマカオに寄ってみることにした。




 

あとがき
     青春と芸術
 もし 昔日をとりもどせるなら
 あの街角に一緒に棲んだあのときを
 君は家先の雀のように、
 私は孤独な羽毛を羽織っていた
 誰も君をデゥンスと呼ばず、私はおとなしくしていた
 一度きりの昔日は失われて
 永遠にもどってこない
             ロバート・ブラウニング 〔著者訳〕

一心にアルバイトで金をため、シベリアを横断し、欧州を一年有余放浪し、シルクロードを車で横断した。今から四十年前のことだ。海外へ出るのは、学生ではフルブライト留学か各国政府の選抜する国費留学生、よっぽどの家庭でないと私費で留学するなど考えも及ばない時代だった。「なんでも見てやろう」の小田実氏でさえ国費留学生だった。私達は禁を破って国外にでた。江戸時代とそんなに変わっていない。芝浦桟橋から日本を離れる時はなんか複雑な気がした。もう日本には帰らない移民みたいな気がした。500ドルもって片道切符だった。無鉄砲な自立だった。
 
現在ひきこもりやニートとよばれる若者達がいる。当時の我々とどう違うのか。逼塞感も時代への反抗心も、そんなに変わっていないと思う。我々は外に向かって逼塞感を解決しようとした。引きこもりの若者は内に向かったのではなかろうか。最近逮捕されたライブドアの堀江君は大学時代ひきこもっていたという。しかし一旦自身を見つけた時無鉄砲に外にむかっていった。エネルギーがどんなベクトルの方向に向うかだけの違いである。
 
世代という違いもある。子は親をみて育つ。親がひどければ子はそうならないようしっかりするという。親があまりに独立心が強いと子は依存心が強くなるという。あまり神経質になる必要はないのかもしれない。時が解決してゆくのかも知れないとも思う。


         




カルカッタ(ホーラー駅)に子供達が住んでいる。
子供達は新聞を集め、空き瓶を集めて売り生活している。
現在フランス人が中心になりLes Galopins deCalcutta)協会が子供達を救う活動を展開している。
団塊文庫もそのお役に立ちたいと願っている。

カルカッタ子供カルカッタ子供

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March 24, 2007

曼荼羅 べなれし

終章 曼荼羅 ベナレシ

ベナレシ


終章 
 曼荼羅・べなれし

 デリーからベナレシに向っていた。ベナレシは聖なるガンジス河沿岸にある古都である。手前に架かる長い鉄橋をわたるとその都の姿が目にはいってくる。何層にも低層の建物が重なって街を構成しているようにみえる。ガンジスは少し濁っているが、悠々と流れの渦をつくっていた。滔々と流れているが、底の流れは急流のように速いという。
その急流にはまると死体はベンガル湾まで浮かばないことがあると聞いたことがある。
ベナレシはヒンズー教の聖都である。それよりなにより人生を一瞬にして垣間見たいと思わんものはベナレシに来ればよい。ベナレシの何処でもそれは経験できるのだ。
栄養失調気味の女の子が物乞いによってくる。背中には更に栄養失調の赤子を背負っている。インド中から瀕死の重病人がここベナレシで焼かれるために運ばれてくる。ガンジスで清められた死体はガーツに運ばれて火葬され、また聖なるガンジスに流される。骨にまだついた肉は空から鳥がついばむ。その鳥を人間が食い、エネルギーとなってまた新たな命をつないでゆくのだ。
三島由紀夫は『暁の寺』のなかでこのベナレシを「人間の肉の実相。悪臭、病菌、屍毒、ベナレシは華麗なほど醜い一枚の絨毯」と形容している。
 我々は三十あるガンジスにおりる階段(ガーツ)のなかで大きな菩提樹がある宿屋をとった。どこでも巡礼の客で混んでいた。毎年巡礼者は全インドから百万人以上のヒンズー教徒が訪れるという。ヒンズーの様々な儀式を行う祭司だけで三万人以上いるといわれている。宿屋は巡礼用で多くのヒンズー教徒と一緒だった。草鞋をぬぐとすぐにガンジス川にガーツにそっておりていった。
ベナレシで臨終を待つ人々は夥しいらしい。ヒンズーの教えではシヴァとその妃ドルガの恵みでベナレシで火葬され、遺灰はガンジス河に散布されると天国にいけると広汎に信じられているという。ガンジスにでると河まではすぐに入れるよう海水浴場の岸状態で入水し易くなっている。河はとても汚い。汚物が浮かんでいる。そこで老人は髪を洗い、歯を磨きうがいをしている。
目の前をサリーを着た婦人が河に入っていった。薄着なサリーが次第に水にぬれてゆく。肌寒い水をあびて祈っている。サリーがピタリと肌に吸い付いて女体の輪郭が現れている。そばには沐浴し、洗顔し、洗濯をしている男がいる。岸の岩場にはヨガのポーズをとる哲人が瞑想していた。
ガンジスの汚濁しているがその豊穣な緑色、キラキラひかる黄金の飾りのついたサリーの色、遠くから上がる赤い炎と白い煙、白い装束の男たちの群れ。色彩の人間サーカスが眼前にある。
ショックを受けた頭脳と感覚が慣れてくるとよりはっきりとその有様が認識できるようになる。河の中域をぷかぷか浮かぶ白い布にくるまれた物体から人間の足らしきものがはみだしている。はみ出した脚に鳥が寄っていた。その先をみると岸壁が炎に包まれていた。
いやそうではない。屍が火葬されていた。多くの旅行客と野次馬が野辺の見送り客である。花束と白い布に包まれた屍が炎のなかにある。ダリが描くシュールリアリズムの絵を見る感じがする。赤い炎のなかから布からはみでた足がでている。しばらくすると骨灰と燃える薪が白い塊となって空にむけて飛び立っていくように見えた。
香材と石炭と肉が焼ける匂いで野犬が吠えていた。正に驚くべき光景が眼前にあった。火葬の側の岸辺で子供が衣類を洗っている。火葬された灰が干している衣類の上に舞っていた。哲人が岩礁からこの光景を静かにみていた。
しかし、この現実をどう説明することができるのか。
強烈な感覚の混濁か。盗視症状か。既存道徳の崩壊か。それともただ驚くばかりなのか。なにも言葉が出ない。まさに天国と地獄が織り成す曼荼羅であった。
benaresi

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March 20, 2007

暗闇に浮かぶ人間の深層

暗闇インドの真実
 パキスタン第2の都ラホールから国境の街ワガからインドに入った。1968年当時、印パ状況悪化で国境はものものしかった。銃口を斜めに持った兵隊が検問している。東洋ジャパニの貧乏学生が何故外車VWに乗って何処に行こうとしているのかが検問で何度も問正された。
 「フーアーユウ?ホエアユーゴー?」とインド訛りの英語で聞いてくる。
 「ジャパニーズ スチューデンツ.リターン ツー ジャパン」と答える。
 「パスポート」
 「オープン ラゲッジ」
 「オーケー」の繰り返しを何度も経験する。
 彼らが調べているのはパキスタンから何の目的でインドに入国したのか?、怪しいものを携行していないか?で、日本人の我々自体には興味を示さなかった。
 インドに入って本当に驚いた。トルコ、イラン、アフガニスタン、パキスタンと中央アジアを通過してきて涸れた風景に慣れた我々の目に突然「緑」が飛び込んできたのだ。インドには木々の緑と畑や水田に野菜と稲の緑があった。自然はなんという条件の変化を人間に課しているのだろうか。パキスタンではめったに見ることがない水牛や鶏が木々の陰で休んでいる。遊牧の民と農耕の民、一方が戒律のイスラムの世界であり、一方は慈悲の仏教の国である。
 日本を出てもう一年半になろうとしていた。1967年芝浦からロシア船でナホトカに渡りシベリア鉄道でモスクワから夫々の目的をもって過ごした欧州、車でユーラシア中央アジアを横断してきた旅もはるばるインドに来ている。三鷹市長選と、現業ゴミ収集のアルバイトで貯めた500ドルと現金10万円を手に何でも経験してやろうと出た旅も、木々の緑と水田の風景のなかにモンスーンアジアを感じ取ることが出来たし、次第に帰りつつある日本を意識した。
 我々はインドの首都デリーを目指してスピードを増した。アムリトサール、ジャァンダール、アンバラ、カルナル、パリパットの街を経過したが余り覚えていない。12月なのにインドの太陽はギラギラと大地を照らしていた。途中の街で食事をとった。そこがどこの村であったか言えないが、或る食堂に入った。食堂にたどり着く前に用を足しに入った便所に驚いた。大きな糞の池だった。池に板がわたしてある。板の上に座って用を足すのだ。糞が落ちると池からお釣りがかえってきた。大きな糞池だった。
 食堂は池の側にあった。食べるものと出すものが並存する。食べるものにたかる銀蠅をインド人はものぐさそうに追っては食べている。我々は顔を見合わせてどうするか考えたが他に食べるものはない。まだデリーまでは遠い。主人に頼んだカレーが運ばれてきた。野菜のカレーにパチャティ〔インド風パン)と乳酸飲料みたいなダヒーがきた。当然フォークも箸もない。右手の三本の指を使って食べる。カレーは思ったほど辛くない。それよりたかる蠅がうるさいし非衛生だと手で追っていたが、料理する厨房の状況を思うと蠅を追う気持ちも失せた。
 これほど人馬一体、自然のなすがままとは思っても見なかった。インドはこれまで経験してきた国とは全然違っていた。
デリーまではパキスタン、ラホールから約6から700キロの距離であった。
 夕方ガンジス川沿いに進むとインドの首都らしい街についた。暗いとにかく暗い街だった。中心街らしき方角に進んでゆく。大きな石の建物が暗いなかに浮かんでいる。それがデリーの中央駅だった。今日泊まる宿を探した。宿屋らしき建物がある横丁にゆくと宿屋の主人が呼び込みをしていた。一泊40から50ルピーで2人部屋があった。冷水シャワーをあびて、マットは硬いが疲れている体には問題なかった。横たわると、とたんに寝た。
 次の日、目を覚ますと表通りの喧騒が聞こえた。すぐに自分がどこにいるのか朦朧としていて意識できなかったが、壁にかかっている極彩色の仏陀像のポスターを見て嗚呼インドだとやっと気付いた。2人を起こして表に出た。
 インドの首都デリーの目抜き通りらしいところを目指したが、一体どっちが北か南か見当がつかないばかりか、道路に座ってこちらを見ている人たちの姿と白い装束と汚れて黒くなっている白いタバーンの男達、脚をだして貧相だが力のありそうなリキシャの男達、ただ行き交うようにみえる群集に気圧されて近くのチャイ屋にはいるのがやっとだった。
 茶は中国とインドが発祥だが、その逆の道を来た。西からティー、テー、チャイ、チャとなった。インドのチャイは紅茶,砂糖、ミルクを鍋で熱々に煮たものである。暑い気候にこの甘くこってりとした熱い飲み物は本当によく合った。
 フーフー言いながらチャイをすするとなにか有意義なことを考えることが出来た。
 インドの通貨はルピーだが、1ルピーは100パイサで1パイサは30銭というところだったが、このパイサは使いでがあった。街には1パイサでタバコの葉を巻いた細いタバコが買えた。これが以外とうまい。チャイは20パイサで飲めた。5円であった。
 舗装されていない道路の砂埃が絶えず巻き上がっていたが、吹く風だけが濃密で饐えた匂いのする街の生活に生気を与えているようだった。昼にはカレー料理を食べた。野菜のカレー、タンドーリとよばれるチキンカレーなどと、チャパティー、ダヒー、タマネギのスライスを一緒に食べた。それでも50円かそこいらであった。
 街を歩くとそこいらじゅうから人が寄ってくる。脚の不自由な老婆が手の平を差し出して、物乞いをしてくる。それも小さな子供を背にしょっている。振り切って20メートル歩くとまた同じである。ルピーの両替人が寄ってくる。
「チェンジマネー?」
「ユーアメリカン、チェンジマネー?」
「ノー、ジャパニーズ」と言うと怪訝な顔をした。彼らにとってジャパニーズもアメリカンも同じだった。要するに外貨ドルを持つものと言う意味なのだ。
「ワンダラー、15ルピー85パイサ、オーケー?、オーケー?」と言う。1ドル360円の時代であった。約16ルピーとなると1ドルが560円となる。それでも両替人に利益が出るのだ。大概の両替人はボスに雇われた使用人だが手数料がどのくらいはいるのだろうか。我々でも切り詰めれば一日1ドルで食事をまかなえるほどだから手数料収入もたいしたものではないだろう。
 夕方3人はデリーに入る前に渡ってきたガンジスにかかる鉄橋まで車を駆った。鉄橋に出るとガンジス河に赤い夕日が映えていた。夕日は貧しいが懸命に生きる人間たちの深層を映し、頑張っても浮かび上がれない人間のいることを詫びるかのようにガンジスを照らしていた。
 街にもどって宿屋に帰ろうと歩いていた時だった。真っ暗な道だった。前に進もうとする脚が動かない。ひっぱっても抜けない。暗い夜道に目を凝らした。目だけが見えた。多くの人間たちが道路に寝ていた。その中の一人の老婆が足を捕まえて離そうとしない。手の平をこちらに向けていた。背中にぞぞげが走った。密林のなかで気味の悪い蛇にあったかのような悪寒が走った。当時日本も貧しかった。戦後の時代に少年時代をすごした我々もその貧しさを生きてきた。しかしこの貧しさは何なのか。貧しさの程度が違った。貧しさの地獄を暗闇のなかにはっきり見た。
 


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March 19, 2007

パキスタン第二の都ラホール

パキスタンの古都ラホール
 カラコルム山脈はラホールから100キロ北方にある。7000メートル級の山々が聳えている。新首都イスラマバードを早朝発って夕方にはラホールにいた。約280キロの距離だが何回かの検問と道の不案内で少し時間をとってしまった。
 ラホールはパンジャブ州の都でパキスタン第2の都である。ムガール帝国の文化を色濃く残している。ラヴィ河に望みインドとの国境の街ワガが隣接している。現在では1000万人以上が住んでいる都市だが、1968年当時は約400万人が住む都だった。1849年から1947年までイギリスが統治していたため、ヴィクトリア王朝文化の影響がみられる。訪れた11月の末はもう完全な冬で気温零下の日がつづいていた。聞くと夏5月、6月、7月には摂氏45度から50度になる日があるという。
 ラホールの記憶はやはり旧市街の印象が強い。バザールや職人街が軒を連ねる旧市街バザールは中近東のバザールと違い観光づれしていない。全く現地の人たちのためのバザールでイスラムの女達が身にまとう黒い覆いの数々までが売られていた。我々は旧市街にある300年以上の歴史をもつクークード・デン(Coocoo'd den)キャフェでチャイとパチャティのシンプルな食事をとった。座ると大モスク(バードシャヒー)が見えた。
 中央アジアを行く隊商の民に古い格言があるとキャフェの主人が教えてくれた。「座っている人間はベッドの敷物みたいなものだ。体を進めるものは悠久の河の流れに似ている」。人生は動作にある。旅をする、そして外の世界を知ることは進歩へと人を誘う。
 人間の歴史のなかで最も重要な道はローマと奈良を結ぶ道だそうだ。ある歴史家が言っていた。ドイツの歴史家がユーラシアの東西を結ぶルートをシルクロードと名づけたのは18世紀になってからだ。紀元前4世紀アレグザンダー大王が東征し、紀元前2Cから1Cにかけてローマの貴族がいたって好んだ絹織物が踏み分けた道、それがシルクロードである。シルクロードは従って、一本の道ではない。多くの道が面となって東西をむすぶネットワークとなっていった。唐の時代、中国長安から、ゴビ砂漠、タリム盆地、東トルキスタンを経過し天山山脈、フェルガナ渓谷、タシケントからサマルカンド、ソグディアナ、ブカラ、コレズム、そしてカスピ海に至る。サマルカンドからはバクトリア、カシガダヤ渓谷、テルメス、カブール、ヤルカンド、ペルシャ、シリアそして地中海に至るルートである。
 悠久の歴史のなかで、数々の巡礼が、学者が、冒険家がこの道を辿った。中国の僧玄蔵が、ベニスの商人マルコ・ポーロが、アラブの僧アクマド・イブン・ファドンが、ババリアの戦士シルト・ベルガーが、ハンガリーの冒険家アルミン・ヴァンベリが、スエーデンの地理学者ヘディンが、ロシアの科学者アレクシ・フェドチェンコが、スイスのジャーナリスト、エラマイヤトルが、米国の地理学者ラフアエル・パンペリが、フランスのジョゼフ・マルタンが、シルクロードを辿り研究してきた。敦煌、ブカラ、テルメスなど壮麗な文化を誇ったシルクロードの遺産はいまやその往時の姿はとどめていない。遺跡は砂漠に埋もれ、廃墟となって後世にその文化を伝えるのみである。


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ユーラシア東西の華の都を発つ

パキスタンの首都ラワルピンディ・イスラマバードに向う。
1968年タイム誌イスラマバド
朝もやのなか東西シルクロードの中心都市といわれたペシャワールを発った。
目指すはカラチから新首都となったイスラマバードと隣接するラワルピンディである。
当時のパキスタンは絶大な権力を握っていたアユブ・カーン大統領に対するデモや暴動が頻発する不安定な状況であった。イスラマバードへの道すがらでさえ政府軍やデモ指導者に交互に何回も車を停められ、そのたびにパスポートを見せて説明を要した。
 アユブ・カーンはパキスタン最初の将軍であり陸軍元帥であった。1958年から1969年にかけてパキスタン大統領として米国と連携、冷戦状況の中でソヴィエトに対峙する前線国家としての戦略をとった。当時米国から援助される物資と金額はパキスタン国家予算を超えたという。
 カーンは1960年首都をカラチからイスラマバードに移し中央集権国家完成に着手する。首都のグランドデザインをギリシャの建築会社ドキシアディスに依頼した。
 どこでもいつでも、「奢れるもの久からず」である。彼の統治のターニングポイントが迫る。それが1965年のインド・パキスタン戦争である。この戦争はインドに対してよりも小国パキスタンに大きな打撃を与えることとなった。そして「タシケントの協約」が結ばれる。パキスタン側の不利な協約はアユブ・カーンの威信を損なうこととなる。不満が国中に満ちてゆく学生、労働者や一般市民までが連日のデモを起こしやがて暴動に発展していった。
 一方アユブファミリーの隠された隠匿財産が暴露されてゆく。末期であった1969年には息子のゴハール・アユブが隠匿していた金額4百万ドルが暴露された。
 不穏な状況のなかラワルピンディに到着した。パンジャブ州にありギネスブックに世界最古のタクシャシラ大学があった。吐く息が白かった。
 新首都イスラマバドは機能により8の区域にしっかりと分かれていた。外交、商業、教育、工業地区等である。出来たばかりの日本大使館を訪問したが余り印象がない。建設されたばかりの新首都は緑も余りなく新しい建築物が目立つ首都であった。生来の明るさですぐにデモに出掛ける学生達とすぐ仲間となった

sonjin59 at 19:13|Permalinkclip!

March 18, 2007

歴史の生き証人ペシャワール

訪れたのはほんの40年前だった。それから今までたった40年間でさえこれだけ歴史に翻弄された都。古代花の都といわれシルクロードの中心都市だったペシャワールpeshawar mapkhaibar
 世界の難所といわれアレクザンダーの東征をも困難にしたといわれたカイバール峠を虎口余生からがら越えてパキスタンの西北の歴史都市ペシャワールについた。いまだからこそ多くの人達がペシャワールを旅してきているが、40年前はそうではなかった。確かにペシャワールはシルクロードの東と西と結ぶ中心都市として栄えたがシルクロードは限られたノマドや商人達の往来する経路で決して一般の民がゆききするような道ではなかった筈である。何故ならこれだけの難所が続く道がそう簡単に一般の民のためであったとは考えられないからである。夢や黄金を求める輩か覇権を握る生存競争の道であったに違いない。古代の道は現代の道ではない。古代の道は闘いの道であった。超えなければならぬ命の道であった。そしてペシャワールはこの道からギリシャ、ペルシャ、オスマン、ムガール、トルコ、ソヴィエト、タリバン、アメリカと戦乱の舞台となり歴史のなかで翻弄され続けてきた。カブール川がつくる渓谷がペシャワール平原になり川が何筋かの支流を形成してオアシス都市となった。季節は夏と冬。40度の夏と10度前後の冬である。
 2001年米国ブッシュ政権はアフガン侵攻を開始した。9・11に対するテロ集団とその首領ビンラディン攻撃である。連日CNNがアフガン侵攻を報道する。カブール、カンダハール、ペシャワールは一夜にしてラスベガス並みに世界中で有名な街となった。30数年前に旅して忘れかけていた懐かしい街の名前だった。当時の平和でのんびりとしていた町並みが浮かんだが、一瞬にして闇をつたう砲声と爆破の光の映像報道の前に断ち切られた。毎年何万というアフガン難民がこのペシャワールに流入してきているという。
 日本にペシャワールの会があるのを最近知った。日本人医師が毎年16万人もの病人を診察しているという。この活動を12500人の会員がサポートしていると言う。日本人も捨てたもんではない。ホームページをみると「誰もが行きたがらない所に行き、誰もがやりたがらないことをする」とあった。
 

sonjin59 at 22:14|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!