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<title>ばら色の人生（40年前の地球散歩）</title>
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<description>還暦からが大切な人生です。一寸の光陰軽んずべからず。これまでの６０年をふまえて新しい挑戦まで真実を語っていきたいとおもいます。片道切符に５００ドル。若さで過ごしたヨーロッパ。１９６９年欧州での滞在を終えた３人の仲間が３万キロのシルクロードの冒険に出た。フランスからカルカッタまでの陸路をＶＷで。今から４０年前の地球散歩の記録。
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<title>曼陀羅　カルカッタ</title>
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<description></description>
<dc:creator>sonjin59</dc:creator>
<dc:date>2007-03-27T15:15:28+09:00</dc:date>
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<content:encoded><![CDATA[<img src="http://image.blog.livedoor.jp/sonjin59/imgs/3/3/3386db6b.JPG" width="160" height="120" border="0" alt="カルカッタ子供" hspace="5" class="pict" align="left" /><<br>
<br>
<br>
<br>
曼陀羅　カルカッタ　　　　　　　　　　　　　<br>
<br>
 生と死がいつも隣り合わせで、死が終わりでなく、来世の始まりとなる輪廻転生の曼陀羅都市ベナレシを早朝発ち、インド最大の都市カルカッタにむかった。カルカッタまでは６８０キロほどの道のりである。<br>
 <br>
三万キロ近くを走って未だに快調なエンジン音を出して愛車ＶＷがインドの埃のたつ街道を走っている。街道には車だけでなく、人間がゆっくりと横断し、聖なる牛がそれ以上にゆっくりと横切ってゆく。側道では、犬が車をみて吠えているが、全く気をかけずに静かに長い白い髭をはやした老人たちが屋台の縁台で、チャイを飲んでいる姿が車窓を跳んでゆく。。<br>
　<br>
 外の気温は３０度近くねっとりと湿気が強い。これが冬だ。夏はどういうことになるのだろうか。今は一月末である。カーラジオから楽器シターのメロディーが流れている。時々小さな集落を通る。白装束のタバーンを巻いた男たちが腰をかがめて何かしている。よく見るとみな小用を足している。インドでは立ち小便の習慣はない。皆座って用を足す。ロータリーのような広場では中央に蛇口のついたバルブから水が出ている。そこで洗濯し、洗顔している群集がいる。ほとんど舗装した道はないから、埃で前が見えないが、そんなにスピードが出せないので危険なことはない。<br>
　<br>
 それでもカルカッタに近づき始めると舗装された国道になって次第にスピードをあげてインド最大の都市に向っていった。<br>
　褐色の濁流ガンジスに鉄橋が架かっている．それがハウラー橋である。これほどの鉄橋が突然現れると実際これまで走ってきた農村インドのイメージが壊れるほどだ。大英帝国がインドに架けた橋だが、なにを結ぼうとした橋なのか。搾取した黄金を運ぶ橋が現在はインドの貴重な橋として残っていた。夕日がガンジスの水面に映えていた。<br>
　<br>
 早朝のベナレシをでて日が暮れかけていた。街が近くなると道にでこぼこができているのか車が揺れだした。次第に郊外から市中にはいってきているらしいが、暗いままで街の灯で明るくならない。街灯など全くない。通過する家の中からはローソクのひかりがもれている。インド最大の都市に電気がきてない筈はないから、考えた。そうか停電だ。電力事情が悪く停電でその需要に対応しているのだと解釈した。<br>
　<br>
 それでも街の中心らしき辺りにくると明るくなったが、道路標識が読めなかった。読めたところで何処が何処だかわからないのだから同じだと諦めて、横に止まったタクシーの浅黒い運転手にこの辺で泊まれるホテルの場所を尋ねた。<br>
「ヒヤリス・チャーリンギストリート。ゴートゥ・サドルストリート。」<br>
サドル通りへ行けといっってるぞ。<br>
「プリーズ　ガイドアス」と言うと　<br>
「フォロウミー」と言い残すとさっさと前を走り出した。<br>
何度か道を右や左に折れると真っ暗なところでタクシーが止まった。そこがカルカッタ有数の安宿街のサドル通りだった。あまりにも真っ暗で危険そうな宿屋街にこの我々も怖気づいた。<br>
「ＹＭＣＡ　プリーズ」とヒリキが言った。<br>
「オーケー、フォローミー」タクシーがまた走り出した。そして大通りに面した建物の前に止まった。<br>
「ヒヤー、テンルピー　ユーハフツゥペイ」運転手が言った。何か到着早々ぼられたが我慢してそれでも案内料と割り切って、ねぎって払った。<br>
　建物はロンドンでよく見た古い建築物に良く似ていた。中に入ると髭を生やした親父風の管理人が受付にいた。本日空きがあるかどうか聞くと<br>
「ユウハブ・ラック。バットオンリー・ドーミトリーベッド。」<br>
個屋でなく大部屋でベッドがおいてあるところだけが空いているという。疲れていて個室でゆっくりして寝たかったがないのでは仕方がない。一泊十ルピー（３５０円）そこそこだ。大部屋に通されるとベッドに腰を落として寝そべった。天井に大きな十字のファンが廻っていた。<br>
 <br>
 隣のベッドにはフランス語の新聞を読んでいるヒッピー風の西洋人がいた。<br>
「ボンスワール」というとにっこり笑顔をつくった。西洋人の見知らぬ人に対する態度には見習う点が多い。自分が決して敵ではないという笑顔を必ずつくる。何処でもだ。<br>
「今ついたのかい。どこから？」と尋ねた。<br>
「車でベナレシから。十二時間かかったよ。」というと<br>
「ボン・デュー」と答えた。懐かしいフランス語の驚きの表現だった。<br>
「君はここは長いのかい」と尋ねると<br>
「もう二ヶ月になる」という。<br>
「カルカッタはそんなに面白いのかい？」と聞くと<br>
「ノー・ウェイ」と初めて英語で答えた。他に方法があるかいというような調子に聞こえた。<br>
　疲れていたが、まだ寝るには早いし腹が空いていた。外にレストランかないか聞くと、「レストラン？」と驚いたような声を出したが、ニタニタして<br>
「シー・フアット」とわからないような答をした。あることはあるのだろう。シャワーを浴びる前に外に出た。夕方８時になるとさすがに涼しくなっていたが、湿気は強い。<br>
 <br>
 「インド料理がないかな」捜すとそれらしき料理屋があった。店に入ると意外に客がいた。強い香辛料と揚げ物と牛乳の匂いが混じって異様な空気だった。とてもレストランとおいう雰囲気ではない。座るとでぶっと太った店の主人が寄ってきた。<br>
「カリー？」と聞くので<br>
「イエス」と返すと色々な料理を紹介したが、わからないので、<br>
「ノット・ソーマッチ」と言うと<br>
「オーケー」と言うと、メニューをもって引き下がった。<br>
待っている間にビールを注文すると、インドビールらしい瓶を持ってきた。ビールの蓋が既に開いてていた。<br>
「おいあいてるぞ」ヒリキが注意したが、喉がひりひりで、もう胃まで入っていた。これがくせものだった。その後二～三日とんでもない下痢に悩まされたのだから。<br>
料理が運ばれてきた。チキンのタンドーリ、ダールというカレースープ、チャパティというパンとこめの飯だ。いつも食べていたものだ。これは安心して食べた。右の指三本で食べた。指に蠅がたかってくる。はらってもはらっても蠅は次から次へとよってくる。蠅を追い払うのと口に持ってくる回数は同じ程度である。不衛生だから追い払うのでなく、蠅を間違って口にいれないように追い払っているのだ。ドーミトリーのフランスのヒッピーがニタニタしていたのがよくわかった。勘定をみると驚くほど安かった。<br>
　<br>
 宿屋まで歩いた。暗い夜道に目が慣れてくる。来る時は気がつかなかった。暗い道の両側に人が蹲っている。無数の人たちが或る者は横たわり、或る者はこちらを見ている。老婆が物乞いの手をこちらに向けている。暗い路上に人があふれているではないか。目の前を白い装束の男が立った。暗い夜道に赤い目だけが異様に光っていた。<br>
　<br>
 カルカッタは百鬼夜行の世界であった。あらゆる人間の姿がそこにある。路上は人間の生活の場所であり壁のない野外の家である。<br>
 <br>
 雨がふれば雨にぬれ、風がふけば風に逢い、寒ければ互いの体で暖をとる。カーストのくびきに縛られ身動きできない最下層の民は路上をついの棲家とする。不思議に肌の色が黒くなればなるほどカーストが低くなると人は言う。本当かどうかわからないが、確かに路上の人たちの肌は黒い。闇の暗さと肌の色が交じると暗闇に人間が溶けだして一体となる。路上に人が一杯という表現は正しくない。路上の闇に人が溶けて漆黒の世界となっているのだ。旅人はこの漆黒の世界に紛れ込むと容易に抜け出すことが出来なくなるという。ヒッピーのフランスの青年もその犠牲者かもしれない。<br>
<br>
 そういえば半世紀前の我々の少年時代の日本も暗かった。ぼんやりと灯のともる野原で暗くなるまで遊んだ。道路は舗装されていなかったし時たま自動車が通ると砂ぼこりで目が痛かった。家の前の溝には生活排水が垂れ流しで黒いペンキが塗られた木のゴミ箱に生ゴミが腐っていた。冬は寒く、練炭のコタツで一家が暖をとった。夏は暑くアイスキャンディー売り声をあげて町内を自転車で走っていた。皆が少しでも豊かな生活をめざして働いた。戦争ですべてを失った人たちは平等に貧乏であった。<br>
　<br>
 眼前のカルカッタには階級が人々を縛っていた。いかに努力しても報われないとしたら人間はなにを目指せばいいのだろう。ここまで不幸せで、ここまでして人間は生きてゆかねばならないのか。<br>
　<br>
 ヤギの首を切断しその首をカーリー神に捧げて経と祈りの儀式をおこなうカーリー寺院がある。斧で首を切られたヤギの胴体はしばらくはぴくぴくと動いている。解体された胴体と肉は路上の民がもってゆく。せめてもの神の恵みがある。まだ人間を犠牲にして神に捧げないだけましなのであろうか。<br>
　<br>
 その夜、強烈な下痢で何度も何度も便所とベッドを往復してカルカッタの最初の夜が白々とあけていった。<br>
　我々には一日一ルピーで下男ともいうのだろうか長身のインド人がついていた。泊まると自動的に世話をやいてくれる。ひどい下痢状態を見て薬を買ってきてくれた。地元の薬で丸薬のようだったが、飲むと効いた。<br>
 <br>
 少し楽になって翌朝から近くのツーリスト。インフォメーション事務所にカルカッタ以降の道路事情を尋ねにでかけた。<br>
事務所に入ると、インド人特有の彫りの深い美人が対応してくれた。名前をマンジュラといった。見事なブリティッシュ英語を話す上流階級出身のようだった。<br>
「フロム・カルカッタ　ノウ・ロード　ポッシブル」ダッカまでは可能だがビルマも中国も国境を閉ざしていた。カルカッタで袋小路に入ってしまったのだ。<br>
「ゼン・ハウキャン・ウイデゥ？」<br>
「ユウハフ・テゥフライ」日本へはビルマを越えて、飛行機で飛ぶしかない。では愛車ＶＷをどうするか？捨ててゆくわけにもいかない。相談するとマンジュラが言った。<br>
「ユウ・トラストミー？」三人は美人のマンジュラに頷いた。<br>
 <br>
 その日の午後からマンジュラがカルカッタを案内するといって我々を連れまわした。なんといって事務所から外出の許可をとったのかわからないが、楽しそうに案内をした。カーリー寺院、ウィリアム砦、ビクトリアメモリアル、ビルラ寺院、なんとかいうジャイナ教の寺院、それに動物園まで、もういいよとも言えずまわった。正直言ってカルカッタには英国の影響のある建物が目立って余り興味を引くところはなかった。<br>
<br>
 こうして物憂げだがなにも特別でなくルーティーンで安楽でベッドに横たわっているといつまでもねむくなるカルカッタの生活がだらだらと過ぎていった。側には下男のジャディムがついていて食べたいものをすぐ買ってきてくれたし、タバコは一パイサ（１５銭）で一本づつでも買えた。ジャディムはカルカッタから１０キロも先の農村にすんでいたようだが、毎日歩いて通ってきていた。我々のほかにも担当する客がいるようだった五人いたとしたって一日五ルピー（７５円）にしかならない。浅黒いが長身で気がよかった。カルカッタに逗留してもう十日が過ぎようとしていた。そのうえ、意識のない内に１９８９年が明けていた。毎年行く年と来る年を祝えるのは安定の象徴以外のなにものでもない。<br>
<br>
 朝ジャディムが我々を揺り動かした。　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　<br>
「受付にマンジュラという娘が待っている。急用だそうだ」<br>
「わかった。すぐ下に下りると伝えてくれないか。」そういって身支度して降りてゆくと、<br>
「インド政庁が貴方達を至急よんでいるの。わるい話じゃない。早くして」マンジュラが言った。<br>
「そう。車の件でね」マンジュラに任せた愛車ＶＷの話のようだ。インド政庁は車で十数分のところにあった。マンジュラは怖ろしそうな衛兵の立つゲートをなれた雰囲気ですいすいとはいってゆく。朝のチャイを嗜んでいる官僚のオフィスの廊下を右に左にかきわけ挨拶しながら進んでゆく。するとどん詰まりの高級オフィスのドアをコンコンと叩いた。中から<br>
「カムイン」と男の声がした。<br>
「アイケイム・ウィズ・マイ・ジャパニーズ・フレンズ」とマンジュラがいうとドアが開いた。４０代の恰幅のよいインド紳士が立っていた。<br>
「サンキュウ・フォ・カミング。アイアム・インスぺクション・オフィサー。」と自己紹介した。カルカッタ市の警視にあたるオフィサーで名前はマハンソンという。<br>
「ヒー・イズ・マイ・アンクル」とマンジュラが紹介した。オフィスのなかに招じ入れられた我々にマハンソン氏がソフトにゆっくりと英国英語で話しかけてくる。<br>
 <br>
「お願いがあるんですよ皆さん。皆さんの愛車をどうなさるんですか。マンジュラがもうご説明したと思いますが、カルカッタからはもうバングラデッシュまでしか車ではいけません。当カルカッタの街路に乗り捨てられても三日か四日で廃車寸前まで略奪されます。売ろうにも闇では罰せられます。そこでです。皆さんの車を救急車としてインド政府に寄贈ねがいたいのです。ご存知のように現在カシミール紛争が続いています。赤十字の車が足りません。如何でしょうか。」丁寧に話が終わった。<br>
「勿論、そのお礼として皆様にキャセイパシフィックの航空券をつぎの目的地まで差し上げます。日本までお帰りであれば日本までです。」と顔の表情を緩めた。<br>
<br>
 三人は顔を見合わせてみたが答はもう決まっていた。もうそろそろこのカルカッタを出よう。ここにいると人間がだんだんと横着でも怠惰でもどんなことでも許されてしまうカルカッタ奈落に落ち込んでしまうような気がした。<br>
　<br>
 百鬼夜行の世界。カルカッタの路上は足の踏み場もない。路上にはありとあらゆるものが売られている。通りは物乞いであふれている。片腕の男、片足の男、盲目の老女、いたいげな体をうる少女、蹲る黒い無数の人影。ある人は「カルカッタは人間のジャングル」と言った。路上の民は輪廻転生を信じる。彼らに迫りくる死は終わりを意味しない。死は転生するのだ。現世が苦しければ苦しいほど新しい生が待っている。日常の死は悲しいことではない。『よどみに浮かぶうたかたはかつきえかつむすびて久しくとどまることなし』。<br>
　<br>
 徒然なる空蝉の現世はやがてあの曼陀羅の来世を約束する。<br>
<br>
　カルカッタ・デゥムデゥム国際空港に三人がいた。ヒリキは日本に、ゴジーはバンコクからカンボヂアに、私はもう少しマカオに寄ってみることにした。<br>
<br>
                <br>
<br>
<br>
　<br>
<br>
あとがき<br>
　　　　　青春と芸術<br>
　もし　昔日をとりもどせるなら<br>
　あの街角に一緒に棲んだあのときを<br>
　君は家先の雀のように、<br>
　私は孤独な羽毛を羽織っていた<br>
　誰も君をデゥンスと呼ばず、私はおとなしくしていた<br>
　一度きりの昔日は失われて<br>
　永遠にもどってこない<br>
　　　　　　　　　　　　　ロバート・ブラウニング　〔著者訳〕<br>
<br>
 一心にアルバイトで金をため、シベリアを横断し、欧州を一年有余放浪し、シルクロードを車で横断した。今から四十年前のことだ。海外へ出るのは、学生ではフルブライト留学か各国政府の選抜する国費留学生、よっぽどの家庭でないと私費で留学するなど考えも及ばない時代だった。「なんでも見てやろう」の小田実氏でさえ国費留学生だった。私達は禁を破って国外にでた。江戸時代とそんなに変わっていない。芝浦桟橋から日本を離れる時はなんか複雑な気がした。もう日本には帰らない移民みたいな気がした。５００ドルもって片道切符だった。無鉄砲な自立だった。<br>
　<br>
 現在ひきこもりやニートとよばれる若者達がいる。当時の我々とどう違うのか。逼塞感も時代への反抗心も、そんなに変わっていないと思う。我々は外に向かって逼塞感を解決しようとした。引きこもりの若者は内に向かったのではなかろうか。最近逮捕されたライブドアの堀江君は大学時代ひきこもっていたという。しかし一旦自身を見つけた時無鉄砲に外にむかっていった。エネルギーがどんなベクトルの方向に向うかだけの違いである。<br>
　<br>
 世代という違いもある。子は親をみて育つ。親がひどければ子はそうならないようしっかりするという。親があまりに独立心が強いと子は依存心が強くなるという。あまり神経質になる必要はないのかもしれない。時が解決してゆくのかも知れないとも思う。<br>
<br>
<br>
　　　　　　　　　<br>
<br>
<br>
<br>
<br>
カルカッタ（ホーラー駅）に子供達が住んでいる。<br>
子供達は新聞を集め、空き瓶を集めて売り生活している。<br>
現在フランス人が中心になりＬｅｓ　Ｇａｌｏｐｉｎｓ　ｄｅＣａｌｃｕｔｔａ）協会が子供達を救う活動を展開している。<br>
団塊文庫もそのお役に立ちたいと願っている。<br>
<br>
<img src="http://image.blog.livedoor.jp/sonjin59/imgs/3/3/3386db6b.JPG" width="160" height="120" border="0" alt="カルカッタ子供" hspace="5" class="pict" align="left" /><img src="http://image.blog.livedoor.jp/sonjin59/imgs/3/3/3386db6b.JPG" width="160" height="120" border="0" alt="カルカッタ子供" hspace="5" class="pict" align="left" />]]>
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<title>曼荼羅　べなれし</title>
<link>http://baraironohibi.livedoor.biz/archives/51042582.html</link>
<description>終章　曼荼羅　ベナレシ




終章　
　曼荼羅・べなれし

　デリーからベナレシに向っていた。ベナレシは聖なるガンジス河沿岸にある古都である。手前に架かる長い鉄橋をわたるとその都の姿が目にはいってくる。何層にも低層の建物が重なって街を構成しているように...</description>
<dc:creator>sonjin59</dc:creator>
<dc:date>2007-03-24T18:20:52+09:00</dc:date>
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<content:encoded><![CDATA[終章　曼荼羅　ベナレシ<br>
<br>
<a href="http://image.blog.livedoor.jp/sonjin59/imgs/c/4/c4e4deac.JPG" target="_blank"><img src="http://image.blog.livedoor.jp/sonjin59/imgs/c/4/c4e4deac-s.JPG" width="160" height="120" border="0" alt="ベナレシ" hspace="5" class="pict" align="left" /></a><br>
<br>
<br>
終章　<br>
　曼荼羅・べなれし<br>
<br>
　デリーからベナレシに向っていた。ベナレシは聖なるガンジス河沿岸にある古都である。手前に架かる長い鉄橋をわたるとその都の姿が目にはいってくる。何層にも低層の建物が重なって街を構成しているようにみえる。ガンジスは少し濁っているが、悠々と流れの渦をつくっていた。滔々と流れているが、底の流れは急流のように速いという。<br>
 その急流にはまると死体はベンガル湾まで浮かばないことがあると聞いたことがある。<br>
ベナレシはヒンズー教の聖都である。それよりなにより人生を一瞬にして垣間見たいと思わんものはベナレシに来ればよい。ベナレシの何処でもそれは経験できるのだ。<br>
 栄養失調気味の女の子が物乞いによってくる。背中には更に栄養失調の赤子を背負っている。インド中から瀕死の重病人がここベナレシで焼かれるために運ばれてくる。ガンジスで清められた死体はガーツに運ばれて火葬され、また聖なるガンジスに流される。骨にまだついた肉は空から鳥がついばむ。その鳥を人間が食い、エネルギーとなってまた新たな命をつないでゆくのだ。<br>
 三島由紀夫は『暁の寺』のなかでこのベナレシを「人間の肉の実相。悪臭、病菌、屍毒、ベナレシは華麗なほど醜い一枚の絨毯」と形容している。<br>
　我々は三十あるガンジスにおりる階段（ガーツ）のなかで大きな菩提樹がある宿屋をとった。どこでも巡礼の客で混んでいた。毎年巡礼者は全インドから百万人以上のヒンズー教徒が訪れるという。ヒンズーの様々な儀式を行う祭司だけで三万人以上いるといわれている。宿屋は巡礼用で多くのヒンズー教徒と一緒だった。草鞋をぬぐとすぐにガンジス川にガーツにそっておりていった。<br>
ベナレシで臨終を待つ人々は夥しいらしい。ヒンズーの教えではシヴァとその妃ドルガの恵みでベナレシで火葬され、遺灰はガンジス河に散布されると天国にいけると広汎に信じられているという。ガンジスにでると河まではすぐに入れるよう海水浴場の岸状態で入水し易くなっている。河はとても汚い。汚物が浮かんでいる。そこで老人は髪を洗い、歯を磨きうがいをしている。<br>
目の前をサリーを着た婦人が河に入っていった。薄着なサリーが次第に水にぬれてゆく。肌寒い水をあびて祈っている。サリーがピタリと肌に吸い付いて女体の輪郭が現れている。そばには沐浴し、洗顔し、洗濯をしている男がいる。岸の岩場にはヨガのポーズをとる哲人が瞑想していた。<br>
ガンジスの汚濁しているがその豊穣な緑色、キラキラひかる黄金の飾りのついたサリーの色、遠くから上がる赤い炎と白い煙、白い装束の男たちの群れ。色彩の人間サーカスが眼前にある。<br>
ショックを受けた頭脳と感覚が慣れてくるとよりはっきりとその有様が認識できるようになる。河の中域をぷかぷか浮かぶ白い布にくるまれた物体から人間の足らしきものがはみだしている。はみ出した脚に鳥が寄っていた。その先をみると岸壁が炎に包まれていた。<br>
いやそうではない。屍が火葬されていた。多くの旅行客と野次馬が野辺の見送り客である。花束と白い布に包まれた屍が炎のなかにある。ダリが描くシュールリアリズムの絵を見る感じがする。赤い炎のなかから布からはみでた足がでている。しばらくすると骨灰と燃える薪が白い塊となって空にむけて飛び立っていくように見えた。<br>
香材と石炭と肉が焼ける匂いで野犬が吠えていた。正に驚くべき光景が眼前にあった。火葬の側の岸辺で子供が衣類を洗っている。火葬された灰が干している衣類の上に舞っていた。哲人が岩礁からこの光景を静かにみていた。<br>
しかし、この現実をどう説明することができるのか。<br>
強烈な感覚の混濁か。盗視症状か。既存道徳の崩壊か。それともただ驚くばかりなのか。なにも言葉が出ない。まさに天国と地獄が織り成す曼荼羅であった。<br>
<a href="http://image.blog.livedoor.jp/sonjin59/imgs/4/2/421aac5b.JPG" target="_blank"><img src="http://image.blog.livedoor.jp/sonjin59/imgs/4/2/421aac5b-s.JPG" width="160" height="120" border="0" alt="benaresi" hspace="5" class="pict" align="left" /></a>]]>
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<item rdf:about="http://baraironohibi.livedoor.biz/archives/51039492.html">
<title>暗闇に浮かぶ人間の深層</title>
<link>http://baraironohibi.livedoor.biz/archives/51039492.html</link>
<description>暗闇インドの真実
　パキスタン第２の都ラホールから国境の街ワガからインドに入った。１９６８年当時、印パ状況悪化で国境はものものしかった。銃口を斜めに持った兵隊が検問している。東洋ジャパニの貧乏学生が何故外車ＶＷに乗って何処に行こうとしているのかが検問で何...</description>
<dc:creator>sonjin59</dc:creator>
<dc:date>2007-03-20T11:15:31+09:00</dc:date>
<dc:subject></dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[<b>暗闇インドの真実</b><br>
　パキスタン第２の都ラホールから国境の街ワガからインドに入った。１９６８年当時、印パ状況悪化で国境はものものしかった。銃口を斜めに持った兵隊が検問している。東洋ジャパニの貧乏学生が何故外車ＶＷに乗って何処に行こうとしているのかが検問で何度も問正された。<br>
　「フーアーユウ？ホエアユーゴー？」とインド訛りの英語で聞いてくる。<br>
　「ジャパニーズ　スチューデンツ.リターン　ツー　ジャパン」と答える。<br>
　「パスポート」<br>
　「オープン　ラゲッジ」<br>
　「オーケー」の繰り返しを何度も経験する。<br>
　彼らが調べているのはパキスタンから何の目的でインドに入国したのか？、怪しいものを携行していないか？で、日本人の我々自体には興味を示さなかった。<br>
　インドに入って本当に驚いた。トルコ、イラン、アフガニスタン、パキスタンと中央アジアを通過してきて涸れた風景に慣れた我々の目に突然「緑」が飛び込んできたのだ。インドには木々の緑と畑や水田に野菜と稲の緑があった。自然はなんという条件の変化を人間に課しているのだろうか。パキスタンではめったに見ることがない水牛や鶏が木々の陰で休んでいる。遊牧の民と農耕の民、一方が戒律のイスラムの世界であり、一方は慈悲の仏教の国である。<br>
　日本を出てもう一年半になろうとしていた。１９６７年芝浦からロシア船でナホトカに渡りシベリア鉄道でモスクワから夫々の目的をもって過ごした欧州、車でユーラシア中央アジアを横断してきた旅もはるばるインドに来ている。三鷹市長選と、現業ゴミ収集のアルバイトで貯めた５００ドルと現金１０万円を手に何でも経験してやろうと出た旅も、木々の緑と水田の風景のなかにモンスーンアジアを感じ取ることが出来たし、次第に帰りつつある日本を意識した。<br>
　我々はインドの首都デリーを目指してスピードを増した。アムリトサール、ジャァンダール、アンバラ、カルナル、パリパットの街を経過したが余り覚えていない。１２月なのにインドの太陽はギラギラと大地を照らしていた。途中の街で食事をとった。そこがどこの村であったか言えないが、或る食堂に入った。食堂にたどり着く前に用を足しに入った便所に驚いた。大きな糞の池だった。池に板がわたしてある。板の上に座って用を足すのだ。糞が落ちると池からお釣りがかえってきた。大きな糞池だった。<br>
　食堂は池の側にあった。食べるものと出すものが並存する。食べるものにたかる銀蠅をインド人はものぐさそうに追っては食べている。我々は顔を見合わせてどうするか考えたが他に食べるものはない。まだデリーまでは遠い。主人に頼んだカレーが運ばれてきた。野菜のカレーにパチャティ〔インド風パン）と乳酸飲料みたいなダヒーがきた。当然フォークも箸もない。右手の三本の指を使って食べる。カレーは思ったほど辛くない。それよりたかる蠅がうるさいし非衛生だと手で追っていたが、料理する厨房の状況を思うと蠅を追う気持ちも失せた。<br>
　これほど人馬一体、自然のなすがままとは思っても見なかった。インドはこれまで経験してきた国とは全然違っていた。<br>
 デリーまではパキスタン、ラホールから約６から７００キロの距離であった。<br>
　夕方ガンジス川沿いに進むとインドの首都らしい街についた。暗いとにかく暗い街だった。中心街らしき方角に進んでゆく。大きな石の建物が暗いなかに浮かんでいる。それがデリーの中央駅だった。今日泊まる宿を探した。宿屋らしき建物がある横丁にゆくと宿屋の主人が呼び込みをしていた。一泊４０から５０ルピーで２人部屋があった。冷水シャワーをあびて、マットは硬いが疲れている体には問題なかった。横たわると、とたんに寝た。<br>
　次の日、目を覚ますと表通りの喧騒が聞こえた。すぐに自分がどこにいるのか朦朧としていて意識できなかったが、壁にかかっている極彩色の仏陀像のポスターを見て嗚呼インドだとやっと気付いた。２人を起こして表に出た。<br>
　インドの首都デリーの目抜き通りらしいところを目指したが、一体どっちが北か南か見当がつかないばかりか、道路に座ってこちらを見ている人たちの姿と白い装束と汚れて黒くなっている白いタバーンの男達、脚をだして貧相だが力のありそうなリキシャの男達、ただ行き交うようにみえる群集に気圧されて近くのチャイ屋にはいるのがやっとだった。<br>
　茶は中国とインドが発祥だが、その逆の道を来た。西からティー、テー、チャイ、チャとなった。インドのチャイは紅茶，砂糖、ミルクを鍋で熱々に煮たものである。暑い気候にこの甘くこってりとした熱い飲み物は本当によく合った。<br>
　フーフー言いながらチャイをすするとなにか有意義なことを考えることが出来た。<br>
　インドの通貨はルピーだが、１ルピーは１００パイサで１パイサは３０銭というところだったが、このパイサは使いでがあった。街には１パイサでタバコの葉を巻いた細いタバコが買えた。これが以外とうまい。チャイは２０パイサで飲めた。５円であった。<br>
　舗装されていない道路の砂埃が絶えず巻き上がっていたが、吹く風だけが濃密で饐えた匂いのする街の生活に生気を与えているようだった。昼にはカレー料理を食べた。野菜のカレー、タンドーリとよばれるチキンカレーなどと、チャパティー、ダヒー、タマネギのスライスを一緒に食べた。それでも５０円かそこいらであった。<br>
　街を歩くとそこいらじゅうから人が寄ってくる。脚の不自由な老婆が手の平を差し出して、物乞いをしてくる。それも小さな子供を背にしょっている。振り切って２０メートル歩くとまた同じである。ルピーの両替人が寄ってくる。<br>
「チェンジマネー？」<br>
「ユーアメリカン、チェンジマネー？」<br>
「ノー、ジャパニーズ」と言うと怪訝な顔をした。彼らにとってジャパニーズもアメリカンも同じだった。要するに外貨ドルを持つものと言う意味なのだ。<br>
「ワンダラー、１５ルピー８５パイサ、オーケー？、オーケー？」と言う。１ドル３６０円の時代であった。約１６ルピーとなると１ドルが５６０円となる。それでも両替人に利益が出るのだ。大概の両替人はボスに雇われた使用人だが手数料がどのくらいはいるのだろうか。我々でも切り詰めれば一日１ドルで食事をまかなえるほどだから手数料収入もたいしたものではないだろう。<br>
　夕方３人はデリーに入る前に渡ってきたガンジスにかかる鉄橋まで車を駆った。鉄橋に出るとガンジス河に赤い夕日が映えていた。夕日は貧しいが懸命に生きる人間たちの深層を映し、頑張っても浮かび上がれない人間のいることを詫びるかのようにガンジスを照らしていた。<br>
　街にもどって宿屋に帰ろうと歩いていた時だった。真っ暗な道だった。前に進もうとする脚が動かない。ひっぱっても抜けない。暗い夜道に目を凝らした。目だけが見えた。多くの人間たちが道路に寝ていた。その中の一人の老婆が足を捕まえて離そうとしない。手の平をこちらに向けていた。背中にぞぞげが走った。密林のなかで気味の悪い蛇にあったかのような悪寒が走った。当時日本も貧しかった。戦後の時代に少年時代をすごした我々もその貧しさを生きてきた。しかしこの貧しさは何なのか。貧しさの程度が違った。貧しさの地獄を暗闇のなかにはっきり見た。<br>
　<br>
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<title>パキスタン第二の都ラホール</title>
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<description>パキスタンの古都ラホール
　カラコルム山脈はラホールから１００キロ北方にある。７０００メートル級の山々が聳えている。新首都イスラマバードを早朝発って夕方にはラホールにいた。約２８０キロの距離だが何回かの検問と道の不案内で少し時間をとってしまった。
　ラホ...</description>
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<dc:date>2007-03-19T21:58:21+09:00</dc:date>
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<content:encoded><![CDATA[<b>パキスタンの古都ラホール</b><br>
　カラコルム山脈はラホールから１００キロ北方にある。７０００メートル級の山々が聳えている。新首都イスラマバードを早朝発って夕方にはラホールにいた。約２８０キロの距離だが何回かの検問と道の不案内で少し時間をとってしまった。<br>
　ラホールはパンジャブ州の都でパキスタン第２の都である。ムガール帝国の文化を色濃く残している。ラヴィ河に望みインドとの国境の街ワガが隣接している。現在では１０００万人以上が住んでいる都市だが、１９６８年当時は約４００万人が住む都だった。１８４９年から１９４７年までイギリスが統治していたため、ヴィクトリア王朝文化の影響がみられる。訪れた１１月の末はもう完全な冬で気温零下の日がつづいていた。聞くと夏５月、６月、７月には摂氏４５度から５０度になる日があるという。<br>
　ラホールの記憶はやはり旧市街の印象が強い。バザールや職人街が軒を連ねる旧市街バザールは中近東のバザールと違い観光づれしていない。全く現地の人たちのためのバザールでイスラムの女達が身にまとう黒い覆いの数々までが売られていた。我々は旧市街にある３００年以上の歴史をもつクークード・デン(Coocoo'd den)キャフェでチャイとパチャティのシンプルな食事をとった。座ると大モスク（バードシャヒー）が見えた。<br>
　中央アジアを行く隊商の民に古い格言があるとキャフェの主人が教えてくれた。「座っている人間はベッドの敷物みたいなものだ。体を進めるものは悠久の河の流れに似ている」。人生は動作にある。旅をする、そして外の世界を知ることは進歩へと人を誘う。<br>
　人間の歴史のなかで最も重要な道はローマと奈良を結ぶ道だそうだ。ある歴史家が言っていた。ドイツの歴史家がユーラシアの東西を結ぶルートをシルクロードと名づけたのは１８世紀になってからだ。紀元前４世紀アレグザンダー大王が東征し、紀元前２Ｃから１Ｃにかけてローマの貴族がいたって好んだ絹織物が踏み分けた道、それがシルクロードである。シルクロードは従って、一本の道ではない。多くの道が面となって東西をむすぶネットワークとなっていった。唐の時代、中国長安から、ゴビ砂漠、タリム盆地、東トルキスタンを経過し天山山脈、フェルガナ渓谷、タシケントからサマルカンド、ソグディアナ、ブカラ、コレズム、そしてカスピ海に至る。サマルカンドからはバクトリア、カシガダヤ渓谷、テルメス、カブール、ヤルカンド、ペルシャ、シリアそして地中海に至るルートである。<br>
　悠久の歴史のなかで、数々の巡礼が、学者が、冒険家がこの道を辿った。中国の僧玄蔵が、ベニスの商人マルコ・ポーロが、アラブの僧アクマド・イブン・ファドンが、ババリアの戦士シルト・ベルガーが、ハンガリーの冒険家アルミン・ヴァンベリが、スエーデンの地理学者ヘディンが、ロシアの科学者アレクシ・フェドチェンコが、スイスのジャーナリスト、エラマイヤトルが、米国の地理学者ラフアエル・パンペリが、フランスのジョゼフ・マルタンが、シルクロードを辿り研究してきた。敦煌、ブカラ、テルメスなど壮麗な文化を誇ったシルクロードの遺産はいまやその往時の姿はとどめていない。遺跡は砂漠に埋もれ、廃墟となって後世にその文化を伝えるのみである。<br>
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<item rdf:about="http://baraironohibi.livedoor.biz/archives/51038997.html">
<title>ユーラシア東西の華の都を発つ</title>
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<description>パキスタンの首都ラワルピンディ・イスラマバードに向う。
。
 朝もやのなか東西シルクロードの中心都市といわれたペシャワールを発った。
目指すはカラチから新首都となったイスラマバードと隣接するラワルピンディである。
当時のパキスタンは絶大な権力を握っていたア...</description>
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<dc:date>2007-03-19T19:13:22+09:00</dc:date>
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<content:encoded><![CDATA[<b>パキスタンの首都ラワルピンディ・イスラマバードに向う。</b><br>
。<img src="http://image.blog.livedoor.jp/sonjin59/imgs/3/a/3aea1eb0.JPG" width="120" height="160" border="0" alt="１９６８年タイム誌" hspace="5" class="pict" align="left" /><a href="http://image.blog.livedoor.jp/sonjin59/imgs/b/6/b6d4bf21.jpg" target="_blank"><img src="http://image.blog.livedoor.jp/sonjin59/imgs/b/6/b6d4bf21-s.jpg" width="159" height="108" border="0" alt="イスラマバド" hspace="5" class="pict" align="left" /></a><br>
 朝もやのなか東西シルクロードの中心都市といわれたペシャワールを発った。<br>
目指すはカラチから新首都となったイスラマバードと隣接するラワルピンディである。<br>
当時のパキスタンは絶大な権力を握っていたアユブ・カーン大統領に対するデモや暴動が頻発する不安定な状況であった。イスラマバードへの道すがらでさえ政府軍やデモ指導者に交互に何回も車を停められ、そのたびにパスポートを見せて説明を要した。<br>
　アユブ・カーンはパキスタン最初の将軍であり陸軍元帥であった。１９５８年から１９６９年にかけてパキスタン大統領として米国と連携、冷戦状況の中でソヴィエトに対峙する前線国家としての戦略をとった。当時米国から援助される物資と金額はパキスタン国家予算を超えたという。<br>
　カーンは１９６０年首都をカラチからイスラマバードに移し中央集権国家完成に着手する。首都のグランドデザインをギリシャの建築会社ドキシアディスに依頼した。<br>
　どこでもいつでも、「奢れるもの久からず」である。彼の統治のターニングポイントが迫る。それが１９６５年のインド・パキスタン戦争である。この戦争はインドに対してよりも小国パキスタンに大きな打撃を与えることとなった。そして「タシケントの協約」が結ばれる。パキスタン側の不利な協約はアユブ・カーンの威信を損なうこととなる。不満が国中に満ちてゆく学生、労働者や一般市民までが連日のデモを起こしやがて暴動に発展していった。<br>
　一方アユブファミリーの隠された隠匿財産が暴露されてゆく。末期であった１９６９年には息子のゴハール・アユブが隠匿していた金額４百万ドルが暴露された。<br>
　不穏な状況のなかラワルピンディに到着した。パンジャブ州にありギネスブックに世界最古のタクシャシラ大学があった。吐く息が白かった。<br>
　新首都イスラマバドは機能により８の区域にしっかりと分かれていた。外交、商業、教育、工業地区等である。出来たばかりの日本大使館を訪問したが余り印象がない。建設されたばかりの新首都は緑も余りなく新しい建築物が目立つ首都であった。生来の明るさですぐにデモに出掛ける学生達とすぐ仲間となった]]>
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<item rdf:about="http://baraironohibi.livedoor.biz/archives/50958691.html">
<title>歴史の生き証人ペシャワール</title>
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<description>訪れたのはほんの４０年前だった。それから今までたった４０年間でさえこれだけ歴史に翻弄された都。古代花の都といわれシルクロードの中心都市だったペシャワール。
　世界の難所といわれアレクザンダーの東征をも困難にしたといわれたカイバール峠を虎口余生からがら越え...</description>
<dc:creator>sonjin59</dc:creator>
<dc:date>2007-03-18T22:14:56+09:00</dc:date>
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<content:encoded><![CDATA[<b>訪れたのはほんの４０年前だった</b>。それから今までたった４０年間でさえこれだけ歴史に翻弄された都。古代<b>花の都</b>といわれシルクロードの中心都市だった<b>ペシャワール</b>。<a href="http://image.blog.livedoor.jp/sonjin59/imgs/9/9/993f3bc2.JPG" target="_blank"><img src="http://image.blog.livedoor.jp/sonjin59/imgs/9/9/993f3bc2-s.JPG" width="160" height="120" border="0" alt="peshawar map" hspace="5" class="pict" align="left" /></a><a href="http://image.blog.livedoor.jp/sonjin59/imgs/b/2/b2922955.JPG" target="_blank"><img src="http://image.blog.livedoor.jp/sonjin59/imgs/b/2/b2922955-s.JPG" width="160" height="120" border="0" alt="khaibar" hspace="5" class="pict" align="left" /></a><br>
　世界の難所といわれアレクザンダーの東征をも困難にしたといわれたカイバール峠を虎口余生からがら越えてパキスタンの西北の歴史都市ペシャワールについた。いまだからこそ多くの人達がペシャワールを旅してきているが、４０年前はそうではなかった。確かにペシャワールはシルクロードの東と西と結ぶ中心都市として栄えたがシルクロードは限られたノマドや商人達の往来する経路で決して一般の民がゆききするような道ではなかった筈である。何故ならこれだけの難所が続く道がそう簡単に一般の民のためであったとは考えられないからである。夢や黄金を求める輩か覇権を握る生存競争の道であったに違いない。古代の道は現代の道ではない。古代の道は闘いの道であった。超えなければならぬ命の道であった。そしてペシャワールはこの道からギリシャ、ペルシャ、オスマン、ムガール、トルコ、ソヴィエト、タリバン、アメリカと戦乱の舞台となり歴史のなかで翻弄され続けてきた。カブール川がつくる渓谷がペシャワール平原になり川が何筋かの支流を形成してオアシス都市となった。季節は夏と冬。４０度の夏と１０度前後の冬である。<br>
　２００１年米国ブッシュ政権はアフガン侵攻を開始した。９・１１に対するテロ集団とその首領ビンラディン攻撃である。連日CNNがアフガン侵攻を報道する。カブール、カンダハール、ペシャワールは一夜にしてラスベガス並みに世界中で有名な街となった。３０数年前に旅して忘れかけていた懐かしい街の名前だった。当時の平和でのんびりとしていた町並みが浮かんだが、一瞬にして闇をつたう砲声と爆破の光の映像報道の前に断ち切られた。毎年何万というアフガン難民がこのペシャワールに流入してきているという。<br>
　日本にペシャワールの会があるのを最近知った。日本人医師が毎年１６万人もの病人を診察しているという。この活動を１２５００人の会員がサポートしていると言う。日本人も捨てたもんではない。ホームページをみると｢誰もが行きたがらない所に行き、誰もがやりたがらないことをする」とあった。<br>
　]]>
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<item rdf:about="http://baraironohibi.livedoor.biz/archives/50902713.html">
<title>アジアの峠　カイバールを越える</title>
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<description>カイバール絶壁で九死一生。

　アジアの峠といわれ、歴史上アレクザンダー大王が、ジンギスカーンが、ムガールのバブールが越えてきたカイバール峠。しかしカイバール峠は思ったほどの峻厳な峠ではなかった。この峠越えを困難にするのは峠の手前と越えてからにあった。と...</description>
<dc:creator>sonjin59</dc:creator>
<dc:date>2006-10-17T11:16:30+09:00</dc:date>
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<content:encoded><![CDATA[<b>カイバール絶壁で九死一生。</b><br>
<a href="http://image.blog.livedoor.jp/sonjin59/imgs/d/b/dbfabeb1.JPG" target="_blank"><img src="http://image.blog.livedoor.jp/sonjin59/imgs/d/b/dbfabeb1-s.JPG" width="140" height="100" border="0" alt="map" hspace="5" class="pict" align="left" /></a><a href="http://image.blog.livedoor.jp/sonjin59/imgs/c/e/ce39f1d2.JPG" target="_blank"><img src="http://image.blog.livedoor.jp/sonjin59/imgs/c/e/ce39f1d2-s.JPG" width="140" height="100" border="0" alt="kaibar" hspace="5" class="pict" align="left" /></a><a href="http://image.blog.livedoor.jp/sonjin59/imgs/1/c/1c314b38.JPG" target="_blank"><img src="http://image.blog.livedoor.jp/sonjin59/imgs/1/c/1c314b38-s.JPG" width="140" height="100" border="0" alt="yuku" hspace="5" class="pict" align="left" /></a><br>
　アジアの峠といわれ、歴史上アレクザンダー大王が、ジンギスカーンが、ムガールのバブールが越えてきたカイバール峠。しかしカイバール峠は思ったほどの峻厳な峠ではなかった。この峠越えを困難にするのは峠の手前と越えてからにあった。というのは落差１００メートルを越える屏風のような断崖を登るのと突然変わる天候にある。道はせまく少しでもスリップしたりすれば一巻の終わりとなる。バスで越える人達には旅行者にある運転手への軽率な身のゆだね感から寝てる間に越えてしまうこともある。だが実際に自分でこの峠を運転して超えるのはハードである。第一まずどのような道であるのか一切見当がつかない。第二に誰かから話を聞いて事前の準備がまったくない。まずなにより峠に関する知識が手元のフランスで買ったアトラスという簡単な地図以外なかったことだ。１９６９年の我々のカイバール峠車踏破から２年後トヨタがシルクロードを車で横断をやり、そのキャッチフレーズが大冒険キャンペーンだったことからも当時の状況を理解していただけると思う。<br>
　ヒンヅークシからの強風で埃の舞うカブールをスイカとガソリンを積んで出発した。岩山の間を抜けて山道が続く。カブールでの温度は確か２０度程度あったが次第に温度が下がっていた。雨が降り始めていた。アフガニスタンの降雨は春先と１１月後半の時期にある。丁度冬が始まりはじめていた。どの程度のぼったのか雨が白いものに変わり始めていた。道路に轍ができて、その上を辿ってゆく。スピードに気をつけて進む。峠を明るいうちに越えるように十分な時間をとってカブールを早朝に出たのだが、車のスピードは時速５キロも出せない。それ以上出すとスリップする。辺りが次第に暗くなってきた。ヘッドライトをつける。ヘッドライトの照明に雪が縦線のように横切ってゆく。行き交う車はない。道路の右側に目をやると暗い虚空、左側は岩山の山肌がみえる。狭い道をゆるゆる登ってゆく。上から一台の車が下りてきた。狭い道である。ハンドルを少し右に切った。その時であった。轍にたまった雪の塊にタイヤがすべった。車は半回転して止まった。上から来た車はかろうじて我々の車をかわすと我々を見ずに降りていってしまった。彼らも必死に運転していたのだろう。<br>
　半回転して止まった車からおりた。なんと車の右側のタイヤの半分が断崖にかかっていた。あと数十センチずれていたら１００メートルはあるであろう真っ暗闇の断崖にまっさかさまに落下していたであろう。三人は車を素手で押して道路に戻し、そのまま無言でまだ車を押していた。<br>
５０メートルほど押したであろうか、ハーとため息を吐いた。仏教では”運否、天賦”という。運不運はすでに天により決まっているというのだ。死ぬものは死ぬ、生きるものは生きるのだ。世に天災も人災もない。人間は仏陀の手の平にのっている。<br>
　峠にでた。やがて車はヒンヅークシの南麓を横切って何事もなかったようにペシャワールの盆地に近づいてゆく。ペシャワールはパキスタンの西端の町である。国境を越えた。<br>
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<item rdf:about="http://baraironohibi.livedoor.biz/archives/50896437.html">
<title>カンダハールからカブールへ</title>
<link>http://baraironohibi.livedoor.biz/archives/50896437.html</link>
<description>ヒッピーの聖地カブールへ
　１９６９年我々もヒッピーだった。小田実の「なんでも見てやろう」に共鳴し、既成の政治や道徳を破壊して新しい何かを模索する世代だった。小学校時代に二部授業を経験し、ＧＨＱによる脱脂粉乳で栄養をどうにか補給して育った世代だった。小学...</description>
<dc:creator>sonjin59</dc:creator>
<dc:date>2006-10-11T14:14:04+09:00</dc:date>
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<content:encoded><![CDATA[<b>ヒッピーの聖地カブールへ</b><br>
　１９６９年我々もヒッピーだった。小田実の「なんでも見てやろう」に共鳴し、既成の政治や道徳を破壊して新しい何かを模索する世代だった。小学校時代に二部授業を経験し、ＧＨＱによる脱脂粉乳で栄養をどうにか補給して育った世代だった。小学校にはまだ下駄で登校したし、夏はパンツ一枚で外で群れをなして遊んでいた。まさしく当時日本はアジアの色を濃く残していた。イスタンブールから今アフガニスタンの首都カブールまでは私にとっては自分の感じるアジアではなかった。トルコも、イランも、アフガニスタンも民族は鼻筋の通った西洋人に近く思えた。ただカブールに到着してカブール川にそって店を構えるバザールにきてみると、モンゴル系のアフガン人がいた。はるかストラスブルグをを出て往路半分、ようやくアジアの片鱗に出会った。<a href="http://image.blog.livedoor.jp/sonjin59/imgs/7/3/7327925c.JPG" target="_blank"><img src="http://image.blog.livedoor.jp/sonjin59/imgs/7/3/7327925c-s.JPG" width="240" height="200" border="0" alt="アフガン人" hspace="5" class="pict" align="left" /></a><a href="http://image.blog.livedoor.jp/sonjin59/imgs/1/c/1c87be52.JPG" target="_blank"><img src="http://image.blog.livedoor.jp/sonjin59/imgs/1/c/1c87be52-s.JPG" width="160" height="213" border="0" alt="アフガン人" hspace="5" class="pict" align="left" /></a><br>
　我々はまずチキンストリートと呼ばれるヒッピーの集まる地区にいった。安宿の前に木で作られた縁台らしきものにヨーロッパやアメリカの若者がハッシシをのんで無気力な目をして横になっていた。近づいても我々になんの興味を示さない。つかの間の陶酔にしたっているのだろう。極端なまでの現象は見るものを唖然とさせる。世界の若者をつかんだヒッピーの運動はここカブールで無気力な刹那的陶酔主義と化していた。こうしてカブールはヒッピーの聖地とよばれていたのだ。<br>
　カブールは標高１６００メートル。朝晩の温度差は２０度から３０度もある。コーエアズモ山脈とシェルダワザ山脈に囲まれた盆地にある。当時の人口は約２０万人。アフガニスタンの首都である。カブール川にそってチャルルチャタバザールがある。バザールに行くと何でも買うことが出来た。豊富な野菜、果物、ざくろは見事な彩りを市場に与えていた。肉は羊、カブール川でとれる川魚まで売っていた。多くの骨董屋が並び古銭屋まであった。カブールは古から職人の街だという。確かに陶器の修復や石を削る職人達を見た。カリファと呼ばれる棟梁が古の技術を伝承していると言う。１９７９年までは。<br>
　現在のカブールは全く事情が違う。カブールの美しい町並みは破壊され瓦礫の街となっている。１９７９年カブールはソ連により占領された。ソ連撤退後は内戦、そして１９９６年タリバンの支配。イスラム原理主義のタリバンは写真、音楽を禁止し、政治的論議を禁じた。女性はチャドリと呼ぶ被いをかぶり、女性だけの外出は禁じられ、男性は成人すると髭をそることが禁止されている。１９６９年我々が見たおおらかで芸術と人生を愛する余裕のアフガニスタンは戦乱に巻き込まれてその片鱗もない。１９６９年アフガニスタンは確かにきらやかにかがやいていた。]]>
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<item rdf:about="http://baraironohibi.livedoor.biz/archives/50895187.html">
<title>朝霞をぬけてカンダハールに向かう</title>
<link>http://baraironohibi.livedoor.biz/archives/50895187.html</link>
<description>昨夜のことは一体なんだったのだろう。人は現実に事件に直面して捕らえられて身ぐるみはがれてやっと事の重大さに気づくほどの鈍感さがあるから生きてゆける。
　危ないから行くなと言われ頭の中では解かったつもりでも出かけてゆく。危機がそこにせまっていても危機に直面...</description>
<dc:creator>sonjin59</dc:creator>
<dc:date>2006-10-10T11:18:16+09:00</dc:date>
<dc:subject></dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[<b>昨夜のことは一体なんだったのだろう。人は現実に事件に直面して捕らえられて身ぐるみはがれてやっと事の重大さに気づくほどの鈍感さがあるから生きてゆける。</b><br>
　危ないから行くなと言われ頭の中では解かったつもりでも出かけてゆく。危機がそこにせまっていても危機に直面して始めて危機を認識できる。それほど人間はおめでたく出来ている。死の直前といえども、意識がなくなる寸前に自分が死ぬと思うのだろう。楽観とそれを呼ぶなら楽観こそ人を生かしている。楽観こそ次の瞬間にエネルギーを蓄えることができるのだ。<br>
　我々はディアレムの朝もやの中、目をさまして、次のアフガン第三の都市、カンダハールに向けて走り始めた。朝食には車中のスイカとディアレムの村で買ったナンですませた。<a href="http://image.blog.livedoor.jp/sonjin59/imgs/f/5/f5ee44e0.JPG" target="_blank"><img src="http://image.blog.livedoor.jp/sonjin59/imgs/f/5/f5ee44e0-s.JPG" width="240" height="200" border="0" alt="あふがん１" hspace="5" class="pict" align="left" /></a><br>
<h6>カンダハール市内風景</h6><br>
カンダハールの市内。アフガン第３の都、活発な商業活動が営まれていた。女性の姿は余りない。<br>
<br clear="left"><br>
 ディアレムの村をでると砂漠の道は次第に岩山への登りとなる。途中に崩れかけた城の跡が見られる。戦いで有名なファテ・カーンの城だという。ギリシクの村にでると道はボグナ運河を渡る。アフガンの大河ヒルマンド河が見えてくる。この河はヒンヅークシ山脈を源として旅の途中で越えてきたイランとアフガニスタンの国境近くの沼地で消滅する。全長１３００キロの河である。ヒルマンド河を渡るとカンダハールの丘が見えてくる。カンダハールは２２万５千人の人口を有するアフガン第３の都市である。カンダハールの名前はガンダーラからきているらしい。向こうに４０００メートル級の山と山脈がみえる。あの山脈を越えてゆくとカブールだ。街に着いた我々はまず銀行を探した。現地通貨アフガンに替えてプリンの類や寒天の菓子を買って食べた。勿論久しぶりの熱いチャイはうまかった。<br>
　明日から行く４０００メートル級の山岳地帯を思ってアフガンコートを買った。羊の匂いがきつかった。このコートは帰国して何日も日に干したが強烈な匂いは消えなかった。しかし暖かさはなによりだった。]]>
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<item rdf:about="http://baraironohibi.livedoor.biz/archives/50890648.html">
<title>闇の砂漠に白いターバンを巻いた一団が。。。</title>
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<description>真っ暗闇の砂漠を走るヘッドライトに突如照らされた白いターバンの一団。
　蜃気楼の砂漠に真っ赤な太陽が沈んでゆく。辺りがつるべ落としのように暮れてゆく。砂漠にある光源は昼間の太陽と夜の月と星だけである。太陽が沈む。闇がビロードの緞帳のように降りてくる。真っ...</description>
<dc:creator>sonjin59</dc:creator>
<dc:date>2006-10-06T11:33:12+09:00</dc:date>
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<content:encoded><![CDATA[<b>真っ暗闇の砂漠を走るヘッドライトに突如照らされた白いターバンの一団。</b><br>
　蜃気楼の砂漠に真っ赤な太陽が沈んでゆく。辺りがつるべ落としのように暮れてゆく。砂漠にある光源は昼間の太陽と夜の月と星だけである。太陽が沈む。闇がビロードの緞帳のように降りてくる。真っ暗闇である。<br>
<a href="http://image.blog.livedoor.jp/sonjin59/imgs/f/5/f5ee44e0.JPG" target="_blank"><img src="http://image.blog.livedoor.jp/sonjin59/imgs/f/5/f5ee44e0-s.JPG" width="140" height="120" border="0" alt="あふがん１" hspace="5" class="pict" align="left" /></a><a href="http://image.blog.livedoor.jp/sonjin59/imgs/0/c/0c2497ae.JPG" target="_blank"><img src="http://image.blog.livedoor.jp/sonjin59/imgs/0/c/0c2497ae-s.JPG" width="140" height="120" border="0" alt="あふがん２" hspace="5" class="pict" align="left" /></a><a href="http://image.blog.livedoor.jp/sonjin59/imgs/f/f/ff16d3cd.JPG" target="_blank"><img src="http://image.blog.livedoor.jp/sonjin59/imgs/f/f/ff16d3cd-s.JPG" width="140" height="120" border="0" alt="あふがん３" hspace="5" class="pict" align="left" /></a><br>
 昨日ヘラートのチャイハネでチャイを飲んだとき親父が我々にもしカンダハールに向かうなら昼間走って夜陰は安全な所で休むように言っていたことが気がかりだった。最近盗賊が出没するからだと言う。もう少しで次の村ディアレムに差し掛かる筈だった。前方をＶＷのヘッドライトが照らしている。スピードが無意識に上がっている。砂漠を走る道路の横は砂漠の瓦礫である。ヘッドライトの照らす明るい部分と暗闇に繋がる部分に霞がかかっていた。その時であった。前方から白いタバーンを巻いた一団が目に入った。我々の車に向かって丸太棒を放り投げてきた。それも何本もである。丸太をかわすごとに車体が大きく傾く。運転していたのは大学の自動車部でならしたヒリキである。ヒリキの顔がひきつっている。車は車道を大きくはずれて砂漠の瓦礫の上をボコンボコンと音を出して進んだ。どうにか車は横転せずに車道に戻った。後方を見ると闇の中に白い一団がみるみる消えていった。<br>
　人生は一寸先は闇。禍福はあざなえる縄の如し。仏教では運否は天賦なりという。人の運不運は天だけが知っている。3人は車を停めず無茶苦茶に走って横転もせず走り過ぎることができた。今から40年前の真っ暗な砂漠のなかのことだっだ。身ぐるみはがれて放り出されて息絶えたとしても何もなかったであろう時代だった。そういえばトルコの日本大使館で言われたことを想い出す。”君達がどこに行こうがいいがここには来なかったし知らないことだ”といわれたことを。<br>
車は闇に光をかざす村に近づいていった。ディアレムの村である。ディアレムの街路に車を停めて回りをみたがチャイハネがあるでなし、その場でエンジンを切って目を閉じるとそのまま眠りに落ちていった。天は二日後にまた我々に味方することなど知る由もない。]]>
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<item rdf:about="http://baraironohibi.livedoor.biz/archives/50889901.html">
<title>荒地と砂漠のアフガン中央部をゆく</title>
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<description>ヘラートからカンダハールへ
　１９８０年代のソ連のアフガン侵略、そしてタリバン、２００１年のアメリカによるアフガン戦争。アフガニスタンは戦争が終わると次の戦争が始まるという歴史を繰り返してきた。１９８９年のソ連の侵攻から開放されるとすぐゲリラ戦に突入。そ...</description>
<dc:creator>sonjin59</dc:creator>
<dc:date>2006-10-05T19:31:01+09:00</dc:date>
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<content:encoded><![CDATA[<b>ヘラートからカンダハールへ</b><br>
　１９８０年代のソ連のアフガン侵略、そしてタリバン、２００１年のアメリカによるアフガン戦争。アフガニスタンは戦争が終わると次の戦争が始まるという歴史を繰り返してきた。１９８９年のソ連の侵攻から開放されるとすぐゲリラ戦に突入。そしてアメリカと連合国によるアフガン戦争。１９８９年からだけで５００万人の難民がイランやパキスタンに流入している。我々がアフガンを横断した時、１９６９年はソ連が自国の権威を誇示するかのように建設した地平線までの弾丸道路だけが不気味に目立っていた。この弾丸道路は一触即発あれば戦車の道となり、戦闘機の滑走路となるものだった。中古のＶＷだったが快調にこの弾丸道路を行った。途中で行き交う車はヘラートからカンダハールまでほとんどなかった。道路をゆっくりとまたいでゆくのは有史以来続いている駱駝の隊列であった。<a href="http://image.blog.livedoor.jp/sonjin59/imgs/4/3/43afbc58.JPG" target="_blank"><img src="http://image.blog.livedoor.jp/sonjin59/imgs/4/3/43afbc58-s.JPG" width="140" height="120" border="0" alt="afugan1" hspace="5" class="pict" align="left" /></a><a href="http://image.blog.livedoor.jp/sonjin59/imgs/9/2/9208eede.JPG" target="_blank"><img src="http://image.blog.livedoor.jp/sonjin59/imgs/9/2/9208eede-s.JPG" width="140" height="120" border="0" alt="afugan2" hspace="5" class="pict" align="center" /></a><a href="http://image.blog.livedoor.jp/sonjin59/imgs/4/e/4ee7e5a8.JPG" target="_blank"><img src="http://image.blog.livedoor.jp/sonjin59/imgs/4/e/4ee7e5a8-s.JPG" width="140" height="120" border="0" alt="afugan3" hspace="5" class="pict" align="right" /></a><p><a href="http://image.blog.livedoor.jp/sonjin59/imgs/3/6/367a5d80.JPG" target="_blank"><img src="http://image.blog.livedoor.jp/sonjin59/imgs/3/6/367a5d80-s.JPG" width="140" height="120" border="0" alt="afugan4" hspace="5" class="pict" align="left" /></a><a href="http://image.blog.livedoor.jp/sonjin59/imgs/b/7/b70d45c9.JPG" target="_blank"><img src="http://image.blog.livedoor.jp/sonjin59/imgs/b/7/b70d45c9-s.JPG" width="140" height="120" border="0" alt="afugan5" hspace="5" class="pict" align="center" /></a><a href="http://image.blog.livedoor.jp/sonjin59/imgs/6/c/6c8ffaec.JPG" target="_blank"><img src="http://image.blog.livedoor.jp/sonjin59/imgs/6/c/6c8ffaec-s.JPG" width="140" height="120" border="0" alt="afugan6" hspace="5" class="pict" align="right" /></a></p><a href="http://image.blog.livedoor.jp/sonjin59/imgs/1/0/10cd9871.JPG" target="_blank"><img src="http://image.blog.livedoor.jp/sonjin59/imgs/1/0/10cd9871-s.JPG" width="160" height="120" border="0" alt="afugan7" hspace="5" class="pict" align="left" /></a><br>
 １９４０年代植栽された松林がヘラートの街路樹である。乾いた大地と山から吹き降ろす強い風に負けずに大地にへばりつくようにしている。松林はヘラートをでるまで続いている。街を過ぎるとミル・ダウドと呼ばれるイスラム神殿が見えてくる。神殿は標高１５００メートルはあろうか丘の上にある。丘はミエウ・アリ峠に続いている。峠の標高は１７７２メートルある。このあたりは不毛な荒地と岩山である。ゆるいカーブをえがいて道はファラ・ルド村に下りてゆく。土壁で固められた家と小さな扉から白いターバンをまいた老人が通り過ぎるよそ者を見ている。やがて荒れ果てた山並みもなくなり、道はただただ前方の地平線までつながる砂漠の景色となっていった。文明社会と無縁の地がそこにあった。我々は、イスタンブールからは常に車にスイカとガソリンを常備していた。スイカは命の水であり、ガソリンは命そのものであった。ヘラートから約３５０キロ　１０時間が過ぎていた。地平線に太陽が落ちてゆく。暗くなる前にディアレムの村に着かなくてはとあせった。この辺りは強盗が出没するからきをつけろとヘラートのチャイハネの親父が言っていたからである。]]>
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<item rdf:about="http://baraironohibi.livedoor.biz/archives/50887578.html">
<title>イラン国境をこえてシルクロードの真珠　ヘラートへ</title>
<link>http://baraironohibi.livedoor.biz/archives/50887578.html</link>
<description>シルクロードの真珠ヘラートに到着

　イラン第三の都メシェッドから１０００キロ国境をこえてアフガニスタンのヘラートに到着した。
ヘラートは紀元前４世紀のダリウス、アレグザンダー大王の時代からの都である。１０世紀のイスラムの詩人モスタウフィ・クワズウィーニ...</description>
<dc:creator>sonjin59</dc:creator>
<dc:date>2006-10-03T15:27:51+09:00</dc:date>
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<content:encoded><![CDATA[<b>シルクロードの真珠ヘラートに到着</b><br>
<br>
　イラン第三の都メシェッドから１０００キロ国境をこえてアフガニスタンのヘラートに到着した。<a href="http://image.blog.livedoor.jp/sonjin59/imgs/3/d/3d67bd6f.JPG" target="_blank"><img src="http://image.blog.livedoor.jp/sonjin59/imgs/3/d/3d67bd6f-s.JPG" width="160" height="120" border="0" alt="herat" hspace="5" class="pict" align="left" /></a><br>
ヘラートは紀元前４世紀のダリウス、アレグザンダー大王の時代からの都である。１０世紀のイスラムの詩人モスタウフィ・クワズウィーニはへラートを称して”シルクロードの真珠”と言った。中央アジアをいくとしみじみと想う。行く先々の崩れかけた遺跡やモスク、城跡、砂にうずもれた都市の跡　何千年の人間の欲望とその結末が眼前に横たわっている。”夏草やつわものどもが夢のあと””盛年不重来　一日難再朝　及時当勉励　歳月不待人”芭蕉と唐淵明の詩が浮かぶ。”若い時は二度とやってこないし、一日に二度の朝もない。楽しめるときに思い存分楽しむことだ。時は人を待ってはくれないのだから。”　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　事の盛衰はまさしく中央アジアの歴史そのものであった。ダリウス、アレクサンダー大王、イスラム　セルジュク、ジンギスカーン、１６世紀ウズベグ、１９世紀アフガニスタン、大英帝国の占領、２０世紀のソヴィエト、１９９５年からタリバン、２００１年９・１１世界貿易センター爆破　同時テロとオサマビンラディンからアメリカによる占領。現在今の時点でも歴史の風雪のまっだだ中にいる。<br>
　９・１１事件はまた奇妙な噂をも醸し出している。それはグリーンペイパーと呼ばれるドル紙幣の謎である。<br>
　手元にドル紙幣があれば試してみるといい。５ドルと１０ドル紙幣を折り紙にすると５ドル１０ドルは印刷されている世界貿易センターが炎上しているように見え、２０ドルと５０ドルは崩壊、１００ドル紙幣は崩壊した跡のゼログラウンドとなっている。また２０ドル紙幣をジャバラ折するとOsama Bin Ladinの名前が浮かぶというのだ。この非科学的噂までユダヤとイスラムの戦いだというのであろうか。<br>
　我々３人はこの戦乱の歴史のなかでシルクロードの真珠とまでうたわれたヘラートにわらじを脱いで二・三日の休息をとった。ヘラートを出るとカンダハールまでのアフガニスタンの砂漠横断の旅が待っていた。<br>
<br>
]]>
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<item rdf:about="http://baraironohibi.livedoor.biz/archives/50692218.html">
<title>シルクロードの真実</title>
<link>http://baraironohibi.livedoor.biz/archives/50692218.html</link>
<description>イランからアフガニスタン国境を行く。

　イラン第３の街メシェッドをでて、一路アフガニスタン国境に向かう。アジアとヨーロッパを分けるイスタンブールからもう一ヶ月が過ぎようとしていた。東西を結ぶ絹の道を行けるだけ行く積もりでフランス・ストラスブルグを出発し...</description>
<dc:creator>sonjin59</dc:creator>
<dc:date>2006-05-16T11:14:19+09:00</dc:date>
<dc:subject></dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[<u><b>イランからアフガニスタン国境を行く。</b></u><br>
<br>
　イラン第３の街メシェッドをでて、一路アフガニスタン国境に向かう。アジアとヨーロッパを分けるイスタンブールからもう一ヶ月が過ぎようとしていた。東西を結ぶ絹の道を行けるだけ行く積もりでフランス・ストラスブルグを出発して今イランからアフガニスタンの国境を辿ろうとしている。絹の道は物資の移動と輸送の為にあった。そして人間と文明が交錯した。トルコから東、道には必ず商人が泊まる宿屋があった。欧州のホテルとは違い、また極東、東南アジアの中にある宿屋ではない、宿舎とでも呼ぶ存在が目立った。商人宿と呼ぶものである。キャラバンサライ（caravanserai)がそれである。そして実はこのキャラバンサライこそイスラムの女達によって建設され運営されていたのだ。<u><b>中央アジアのシルクロードは実はイスラムの女が守った道なのである。</b></u>　モスレムの文明は常に移動を前提に組み立てられていた。アラブの民も非アラブの民も遊牧の民であり移動の歴史を継承している。戦争には大軍をくんで陸路を行ったのである。知識を積まんとするものは幾千里を行って師についた。都市の富とは商品の移動と共にあった。またイスラムの宗教の衝動はメッカへの巡礼にあった。現代でもメッカへの巡礼に何千万の信仰者が移動している。厳しく人を寄せ付けないほどの自然環境の中で旅する者を受けつけるのがキャラバンサライであった。陸の船、砂漠のオアシス、乾きを癒す水、傷ついた兵士の看護、富の保管、秘密と情報の保持、さすらう男達を荒廃から護る者、それがキャラバンサライとイスラムの女達であった。一人の男に複数の女が必要だった。イスラム教徒の女達はこのキャラバンサライの主人たちであった。現存するバグダッドからメッカまでの古の巡礼のルートは８世紀のペルシャの王の妃が実際に建設したものでダーブズバイダ道となずけられている。<br>
　メシェッドを出発した我々は、ジャナタバード、トルバエジャム、タイイエバードと経てアフガニスタンに入りグリアン、カルク、そしてヘラートを目指した。約１０００キロの道程である。<br>
　<br>
<a href="http://image.blog.livedoor.jp/sonjin59/imgs/d/8/d88d328c.JPG" target="_blank"><img src="http://image.blog.livedoor.jp/sonjin59/imgs/d/8/d88d328c-s.JPG" width="160" height="120" border="0" alt="イラン砂漠" hspace="5" class="pict" align="left" /></a><a href="http://image.blog.livedoor.jp/sonjin59/imgs/4/1/41dab432.JPG" target="_blank"><img src="http://image.blog.livedoor.jp/sonjin59/imgs/4/1/41dab432-s.JPG" width="160" height="120" border="0" alt="イラン砂漠" hspace="5" class="pict" align="left" /></a><br>
 イラン側の国境の街がカルカレフ、アフガニスタン側がイスラムカラ。国境についた時にはもう日が暮れていてあたりには明かりもなく真っ暗闇。国境事務所は薄暗い自家発電の裸電球だけのバラックで係り官が暇そうにテーブルにひじをついていた。シャロームと挨拶すると面倒くさそうに対応してくれた。<br>
　片言の英語で「ホエアユーゴ」何処へ行くと聞くから「ジャパン」と答えたら「ジャパニーズは初めてだ」と答えた。いくらなんでも日本人が陸路でこの国境を越えるのは初めてではないと思ったがこの係り官には初めてと言う意味だろう。１９６９年いまから４０年前のことだ本当に初めてだったのかもしれない。何か持っているかと聞くから、いつか誰かにあげようと思って機会がなく、財布にしまったままの日本の穴あき五円玉のはいったお守りをあげたら喜んでパスポートにバチーンとビザの判をおしてくれた。当時のパスポートを見てみるとそれはそれはしっかりとした判でおまけに収入印紙まで貼ってあった。<br>
<br>
　<a href="http://image.blog.livedoor.jp/sonjin59/imgs/1/7/1780ca84.JPG" target="_blank"><img src="http://image.blog.livedoor.jp/sonjin59/imgs/1/7/1780ca84-s.JPG" width="160" height="213" border="0" alt="ビザ" hspace="5" class="pict" align="left" /></a>]]>
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<item rdf:about="http://baraironohibi.livedoor.biz/archives/50688302.html">
<title>ゾロアスターとペルシャ</title>
<link>http://baraironohibi.livedoor.biz/archives/50688302.html</link>
<description>芸術とゾロアスター

 拝火教としても知られ、良く聞く名前のゾロスターについて正確に知っている人は意外に少い。現在キリスト教、ユダヤ教、イスラム教に多くの影響を与えたと言われるゾロアスターとは一体どんな存在であったのでしょうか。ドイツの哲学者フリードリッヒ...</description>
<dc:creator>sonjin59</dc:creator>
<dc:date>2006-05-14T09:29:45+09:00</dc:date>
<dc:subject></dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[<u><b>芸術とゾロアスター</b></u><br>
<a href="http://image.blog.livedoor.jp/sonjin59/imgs/3/2/32cd9cc2.JPG" target="_blank"><img src="http://image.blog.livedoor.jp/sonjin59/imgs/3/2/32cd9cc2-s.JPG" width="200" height="260" border="0" alt="zoroaster" hspace="5" class="pict" align="left" /></a><br>
 拝火教としても知られ、良く聞く名前のゾロスターについて正確に知っている人は意外に少い。現在キリスト教、ユダヤ教、イスラム教に多くの影響を与えたと言われるゾロアスターとは一体どんな存在であったのでしょうか。ドイツの哲学者フリードリッヒ・ニーチェは「ツアラツーストラはかく語りき」を著わして超人の思想をツアラツーストラ（ゾロアスターのドイツ語名）の口を通じて説いた。またドイツの音楽家リヒャルト・シュトラウスは交響詩「ツアラツーストラはかく語りき」を作曲。その序章は１９６８年の映画史上の名作、スタンリーキュウブリックが製作、監督、脚本というオールマイティの能力を発揮した「２００１年宇宙への旅」に使用されている。<br>
　紀元前のことである。マケドニアのアレグザンダー大王が東征を始めたのが紀元前約２５０年前、その約３００年前、紀元前６２８年ゾロアスターは職人の子供として生誕したという。幼少時より超人的能力を持ち背後には光が満ちていたという。キリストがソロモン王とダビデ王の両家の血筋をもつ王子であったのと違いゾロアスターは全く血統上のカリスマ性はない。思想史上重要な点は二つあるらしい。一つがヘレニズム時代のオカルト、神秘的宗教の基礎となった点、二つ目に一神教であることだと言う。神はアフラ・マツダという光の神、対立する悪神アリマンとの対立神論。<br>
 人類の歴史の中で主要な宗教が成立した時期は仏陀、仏教（紀元前６世紀）ユダヤ教　（紀元前６世紀）　キリスト教（紀元）、イスラム教（紀元後７世紀）全て悠久の人類生誕の歴史から見れば本当に短い期間に集中している。常に存在していた超絶対な存在への人類の憧憬と帰依がこの時期集中して形となった。それも複数神ではなく全て絶対なる一神教である。仏教についても仏陀の教えと言う点では一神教のカテゴリーである。<br>
　エジプト、メソポタミヤ、黄河、インダスという四大文明を築き上げた人類はその後紀元前６世紀、苦悩の時代を迎える。行く先のない暗澹たる未来観が人類を襲う。それは人類同士が争い、共食いによる種絶滅の恐怖となってゆく。そこに現在の３大宗教の起源があった。<br>
　現実還暦を迎えている私でさえ年を経て先に限界が見えてくると生命の限界を良く考える。死が迫ってくると、恐怖が生じる。永遠の生への思いから自身を絶対なものに帰依させたくなる。宗教とは黄昏に重要な絶対必要な要素なのである。人類の歴史を見ると、紀元前６世紀から紀元後６世紀の間の１２００年間が人類の終末からの再生と救済の時期だったのではなかろうか？<br>
　その後現在の２１世紀まで人類に絶対的な終末論はない。いはば人類はキリスト教、イスラム教、仏教によって救われているのだ。キリスト教を信ずるもの１９億人、イスラム教１０億人、そして仏教を信ずるもの３．５億人である。なにも信じない無神論の日本人には救済はないのか？]]>
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</item>
<item rdf:about="http://baraironohibi.livedoor.biz/archives/50686847.html">
<title>イラン中央砂漠を行く</title>
<link>http://baraironohibi.livedoor.biz/archives/50686847.html</link>
<description>ダシカヴィール砂漠をゆく


砂漠よりむしろ土漠
　イランの首都テヘランからカスピ海はすぐそこである。僅か直線距離では４０から５０キロといったところであろう。我々も黒海とカスピ海は必見だと思っていた。黒海は既に見た。地図ではカスピ海は近い。そこで昨日の日...</description>
<dc:creator>sonjin59</dc:creator>
<dc:date>2006-05-13T13:56:20+09:00</dc:date>
<dc:subject></dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[<u><b>ダシカヴィール砂漠をゆく</b></u><br>
<a href="http://image.blog.livedoor.jp/sonjin59/imgs/4/f/4f2624e0.JPG" target="_blank"><img src="http://image.blog.livedoor.jp/sonjin59/imgs/4/f/4f2624e0-s.JPG" width="160" height="120" border="0" alt="イラン砂漠" hspace="5" class="pict" align="left" /></a><br>
<a href="http://image.blog.livedoor.jp/sonjin59/imgs/e/c/ec6d6fb4.JPG" target="_blank"><img src="http://image.blog.livedoor.jp/sonjin59/imgs/e/c/ec6d6fb4-s.JPG" width="160" height="120" border="0" alt="おいらん砂漠" hspace="5" class="pict" align="left" /></a><br>
<u><b>砂漠よりむしろ土漠</b></u><br>
　イランの首都テヘランからカスピ海はすぐそこである。僅か直線距離では４０から５０キロといったところであろう。我々も黒海とカスピ海は必見だと思っていた。黒海は既に見た。地図ではカスピ海は近い。そこで昨日の日本商社に電話して様子を聞いた。するとなんとあの５０００メートル級のエルボルグ山脈の峠を越えるそうだ。すぐにやめてイラン中央砂漠（正式にはダシカヴィール砂漠）を横断することにした。ガルムサール、セムナン、ダムガン、エマムルド、ザムゼバール、ネイシャブール、そしてマシャッドまでの１２００キロに挑む。その前にイランという国についてもう一回整理しておこう。イランの正式名称はイランイスラム共和国　（ジョムフーリーイエ・イーラーン）と言う。面積は日本４．５倍。人口は６８００万人。広大な砂漠を有する。砂漠と言っても乾いたあのさらさらな砂漠地帯ではない。ワジスとよばれる瓦礫と砂と土が膨大に堆積された地帯である。この地帯では、農業は全く出来ない。通貨はリヤール。当時の１ドルは約１００００リアル（１リアルは３銭というところか）。通常に泊まるホテルが一泊一ドル。食事は田舎ではほとんど払った感覚はないほどの料金だった。我々は水とガソリンを備蓄して車に積んでいた。特にガソリンは切れたら最後命に関わった。水については豊富にスイカとメロンを積んでいた。面白いのはトイレについて困ったとかの記憶が全くないことである。どうしてなのか今もって不可思議なことの一つである。人間、生理的現象については記憶機能が深化しないのかもしれない。<br>
　我々はこの砂漠の踏破を少し甘く見ていたのかも知れない。テヘランを昼食を済ませて出発した。なぜならテヘランからマッシェッドまでバスで１８時間と聞いて、それなら十分１０時間ではマッシェッドに到着すると考え、少しゆったりテヘランを出発したのです。砂漠のなかで何もなければでした。それにバスでも砂漠の中を猛スピードで飛ばして１８時間でした。ガルムサール、セムナンまでは問題なしでした。セムナンからダシカヴィール砂漠に入ります。砂に覆われたような古都の街ダマガンを過ぎて約２０キロ突然右後ろのタイヤがバースト。幸い怪我もなくただ右に傾いてしまった車と我々が残されていました。前も後ろも砂漠。もう暮れ始めていました。一月とはいえ昼間は２５度、夜になると冷え込んで吐く息が白い。次の大きな街ダムガンまでは２０キロほど。とにかく次の街までたどり着かなくてはと考えた我々は一人が運転、一人がヨットの操縦まがいに左に体重をかけてそりだす。一人は外で走りながら状態を見る。時速１０キロ走行を始めた。休んでははしり走っては休みしてダマガンの街に着いたのはもう真夜中。くたくたになって水をのんですぐにパンクのままの車のなかで寝てしまった。<br>
　早朝目を開けると、しっかり開かれた大きな目が一杯こちらを覗き込んでいた。質素だがきらきらと輝く子供達の好奇心の目だった。東洋人が車のなかで寝ている。車はパンクしている。ドアを開けて一歩外にでると、砂漠の朝のギラギラの太陽と昨日から何も食べていないのとで体がフラッとした。<br>
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　<a href="http://image.blog.livedoor.jp/sonjin59/imgs/1/d/1dda4c27.JPG" target="_blank"><img src="http://image.blog.livedoor.jp/sonjin59/imgs/1/d/1dda4c27-s.JPG" width="200" height="180" border="0" alt="iran" hspace="5" class="pict" align="left" /></a><a href="http://image.blog.livedoor.jp/sonjin59/imgs/f/d/fda2742e.JPG" target="_blank"><img src="http://image.blog.livedoor.jp/sonjin59/imgs/f/d/fda2742e-s.JPG" width="160" height="120" border="0" alt="irann" hspace="5" class="pict" align="left" /></a>]]>
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